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霧の万年床〜楠 均のBGM日記2007/2 | ||||||
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作家いしいしんじさん(以下敬称略)のトークショー&サイン会に行く。妻が絶対面白いからと言うので僕の分もチケットを取ってもらっていた。(後で、やー腰が抜けるほど面白かった、などと言われると腰が抜けるほど悔しいので。) いしいは(敬称略ってむつかしい)マグロで有名な三崎とお城のある松本に二股かけて住んでいらして、それぞれの町の殺風景な風景とか行きつけの汚い店とか、どこにでもいる猫とかつぶれた風呂屋とか、知り合いの酔っぱらいのおっちゃんとかその息子とかをスライドで見せてくれる。腰は抜けなかったがすごく面白い。後半は、新刊「みずうみ」に影響を与えたかもしれない(与えなかったかもしれない)書物からのでたらめ抜粋朗読。お客はランダムに配置されたページ群のコピーを渡されて、耳で聞きながら今どこを読んでいるのか目でも追う。さながら文字オリエンテーリング。僕は老眼が進んでいて全く追えない。息子は若さしか取り柄のない無学な阿呆者に過ぎないが、意外にも目ざとく追っていく。(日頃、いやーもー齢なんで、なんて卑屈な笑みを浮かべ頭かいているのは敵を欺くための作戦に過ぎないのだが、いやそのつもりだったのだが、実はそれが紛れようもない真実なのだと知らされているのだろうか。日々ちょっとずつ。) 天才バカボンやスヌーピーから聞いたこともないむつかしそうな本まで、無意味な羅列なのだけれど、面白い。あんなユルユルで無意味なライブをXNOXでもやってみたい。(もう十分にユルイんだろうか?) そういえば、しんじ(敬称略ってむつかしい)も大阪弁でしゃべる。大阪弁だからオモロイとは思わないけれど、ちょっと羨ましい。
朝さっさと帰京。アササッサ。何年か前まではアササッサではなかった。仕事であちこちに行くことが多く、それに付随した楽しみを見つける必要に迫られた。心細くなるくらいひと気のない立派な美術館に行くとか、炎天下、道に迷って急坂で倒れるとか。もっと些細な楽しみとして、まともなサンドイッチとコーヒーを出す昔風の質素な喫茶店に早朝巡り会うとか。多くは年配のサラリーマンとか近所の商店主といった常連で占められていて、そーゆー人たちがワールドカップの折などサッカー人気にケチつけたりしている。夫婦二人きりで切り盛りしているのがベスト。朝7時に店を開けて夕方6時に閉める。モーニングセット400円前後。こういう店に当たる確立は大阪が高いような気がする。東京ではそんな機会がないだけかもしれない。丸の内とか新橋あたりにあるんだろうか。こういう店に当たるとアメリカ資本の大型チェーン店なんか絶対に行くかなぁオヤジ、ってわけもなく気合いが入ってきて顔面紅潮する。私もいっぱしの愛国者。
打ち上げの居酒屋に身なりのよい老人が一人でやってきて、座るなりテーブルに20分ほど突っ伏した後、ガバと顔を上げて女将さんに向かって「こら!」と怒鳴ったかと思うと「わしのうちはどこや!?」に始まるナンセンスな言動挙動のオンパレード。テーブルに万札数枚広げといて、女将さんに「こんなにいりません」と引き取らされたりもしている。やりとりからイチゲンの客とわかるが、女将さんも板さんも辛抱強く鷹揚に対応。最後は老人が「しっかり励めよ」みたいなことを言って板さんと固い握手を交わして立ち去る。このやりとりを支えているのが他ならぬ大阪弁であることを実感しないわけにはいかなかった。大阪弁がうらやましく思える。「社交としてのフランクな態度」を可能にするユニークな言葉だと思う。「フィクションとしての親密さ」が無理なく演出される。フィクションと言ってもウソとは違う。「あんたと私はただの他人。せやけど袖すり合うも他生の縁。今このひとときの友とならんや。」という共通の了解がある。長い時間をかけて練り上げられたであろうイントネーション・アクセント・言葉の歴史は、そのまま人と人とが情に頼らずに仲良くやっていくための工夫の歴史だったと思う。(言葉の外見ではなく、現実の心の動きが伴わないと大阪弁がこのような資質を持つことはなかった。と思う。)作家のヴォネガットは、必要なのは愛ではなく少しの親切心だ、と言っていた(ような気がする)。親切心がないと、大阪弁の外見の親密さは、きっついウソっぽさに裏返る、こともまた覚えのあるところ。
深夜の中央線の体が変形するほどの混雑の記憶も薄れぬまま、気が付けば新幹線の中。(遊佐未森さんの)cafe mimo大阪進出。梅田の赤い観覧車を載っけたあのビルの中。cafe mimoもこうして少しずつ版図を広げ、やがて帝国を築くのだ。ぼっけーきょーてー(競艇)マニアの寺田さん作編曲コーナーにおけるmimoちゃんの少し演歌調の歌唱には本職の演歌歌手には出せない明るいのんびりやかさがあって、ぜひとも全アジアに知らしめたい。まずは紅白だ。坂本冬美ちゃんと一緒に後ろで踊りたい。
ちったでざばだっくらいぶ。明治時代の人が読んだら何のことかわからないだろう。青木君の美しいギターソロ、難波さんの神がかった力業、クールに見える吉田君のガッツネス、楠の股引、等見どころ聞きどころ満載のライブだが、やはりキラコミネ(新種の米)がうまい。リハ中みんなやることが多すぎてグシャグシャだったが当日はちゃんと音楽が立ち上がった。設計図がしっかりしているからでもあるが、やはり米の力だ。岩をも貫くキラ王子の念力と、寿司食いねぇアタイを見ねぇこう見ねぇのコミネ姫のしーするーせくしーぱわーだ。二人きりでステージに立つ姿は今までになくしっくりきている。里山に稲穂をなびかせるトワエモアのように自然だ。喜びも悲しみも幾星霜、ぬか味噌の妻もかき混ぜないと腐ってしまう。音楽はとてつもなく自由に放たれるものなのだ。しかし簡単には放たれ得ないものなのだ。バカボンのパパはハナタレナノダ。僕は舞台袖でいやらしい笑みをかみ殺し、代わりに苦虫を噛み潰したような顔で再びドラムセットの一部に収まった。
そうそう、コミ姐さんからの助言で「楠 均」の名前でブログにたどり着けるようにいたしました。「早く気付かんかいチビこら、お前みたいなボケがおるからネット社会の効率化が著しく妨げられて、わしらが迷惑するんじゃ、つーの。」とは言われませんでした。
ここ何日かドラム叩く。背中に黒い影貼り付く。それが巨大蜘蛛みたいにもぞもぞ動き出すと、つる。クモとツルが通じ合っている。いやらしい。背中がギューッとなってるところに今度は心臓がキューッとなって、同時にひきつれる。身体の表と裏が通じ合っている。いやらしい。フツーのドラムセットをフツーのスティックで叩くとこうなるのか。いや、たぶん行いが悪いだけだ、気をつけよう。
昨日盛り上がり過ぎた。一日廃人として寝て過ごす。「寝て過ごす」と「寝過ごす」では全然意味が違う。(「て」が違う。てちがい。)ネスゴス。南米かギリシャにそんな名前の町がある。かもしれない。
チーちゃん(ベーシスト)夫妻と浅草雷門で待ち合わせ。チーちゃんに寄席への興味をたきつけられてから数ヶ月、ついに演芸の本場浅草の地を踏む。(別に初めてじゃないんだけど) 通りにはエノケン、渥美清、三波信介などのポ−トレート。(ビートルズのリバプールとかプレスリーのグレースランドみたいだ。行ったことないけど。) 気合い負けせぬようまず腹ごしらえ。「駒形どぜう」。店のしつらえ面白く格子から日が差す感じに風情。エライ繁盛ですな。江戸だ浅草だと意味もなく口走るうちにどんどん盛り上がる。こういうのは同行の人にとってはどうなんだろう、そこまで気を回す余裕もなく半年ぶりにコップ一杯のビールを飲みきり、酩酊パラダイスに突入。大嫌いだったアサヒスパードライが今日はおいしい。店のお姉さんの物言い・ご指導もスーパードライな大江戸タッチだ。どぜうはうまい。なんてったってどぜうだ。ミミズが苦手な妻もうまそうに食べている。あっこちゃんは僕の後輩で学生時代からアル・ジャクスンが大好きだったソウルドラマーだと知る。僕の時代にはそんなおっさんくさい女子大生はいなかった。素敵だ。外に出て大学芋をほおばりつつ光溢れる浅草をぶらつく。銭湯寺、いや浅草寺の銭湯のようにばかでかい賽銭箱に5円玉を遠投。銭湯→ゼニ湯→浴槽いっぱいの銭。やはり浴槽には湯が入っていて欲しい。バロック的バラック的飲み屋連なり、ベンチ・テーブル・人など外にはみ出し、競馬新聞満開の花。しけた風情と賑わいが背中合わせになっているのが浅草らしく自分の気持ちもインチキくさい方にたなびいていく。素敵だ。夜の部開始は5時。その少し前にめいめいおやつを手に演芸ホール入場。プログラムが大幅に変更されている。誰も金返せといわない。フジロックなら許されないだろう。(知らないけど。) ものすごくよく笑う年配の御婦人や、ずっと頷き続けているおっさんがいる。ドーンと開いたエリアにある時ドカーッと人がやってきて小1時間ガーッと笑ってサーッと引き上げていった。(はとバス?) ものすごく退屈しているというかもはや不機嫌といってもいい感じの御婦人が僕の前に座られて、僕が馬鹿笑いすると3分の1くらい振り返る。何がそんなにおかしい、お前はアホか。たぶんそんなお気持ちなのだろう。初心者ゆえか、面白くない時もずっと顔が緩んでいる。いつ何がきても笑えるように緩みきっている。特殊な状況だ。チーちゃん、お目当ての川柳川柳(かわやなぎ せんりゅう)が欠席と知って茫然。トリの三遊亭歌之介汗みどろの熱演に場内爆笑。チー様ようやく報われたご様子であった。終演後早々と冷えていく受付周辺の雰囲気とか、相撲の呼び出しほど立派ではないが一応和風コスプレの係のおじさんのビジネスライクな表情とか、なかなかいい。しけてる。しけてるということはあの世とこの世を行き来する切なさかいな。また寄席に行くぞ。
庭園美術館併設の祝宴場。昭和の気品が香る。遊佐未森さんの桃の節句恒例女性限定ライブ。たとえどんなに苦しい時でも、きっと本番にはフォースを全開するジェダイミモリのヨーダ的メソッドをなんとかして盗みたいと10年かれこれ。データは揃っているのだが・・・。(長女である、とか。)この日は調子もよろしく、フォース爛漫に花開く。いやが上にも盛り上がる。
ゲストの堂島孝平さんは僕の息子ほどの年齢だが、身長は僕と等しく、年齢差を感じさせない思いやりのある方。ルークのように歯切れがいい。こんなにポップな人がいるのか。
ギターの西ちゃん、巨大なティンカーベルのごとき妖精ぶりにますます磨きがかかり、髭はますます濃い。目を離すとすっと消えて、次元の隙間に挟まって手足をバタバタさせている。ハエみたいに。ファンタスティック。ブルーグラスのレコードいっぱい借りた。ジャケットで見るかぎり妖精ではなく変態のような人が多い。シベリアの森に住み、森に入ってくる子供たちを片っ端から食べていた鬼がいた。鬼は妖精の一種か。それのアパラチア版みたいな感じのじいさんがバンジョー抱えて歌う。とりあえずイメージには目をつぶり、音楽に耳を傾けるとしよう。
マイワイフ&サン、アルフレッド・ウォリスという英国の妖精じいさんの展覧会を見て来たと。じいさん若い頃船乗りで、70歳を過ぎて絵描きになったという。絵本で見た引退した船長さんの幸福で立派な貫禄を想像したが、乗っていたのは小さな漁船で貧乏で孤独だったらしい。絵は稚拙で自分が思い出せるかぎりの風景をキャンバスに、ではなく厚紙や板きれにとても丁寧に描いたと。子供の絵のようだけど、経験が生きている。自分の手に届くだけのことを精魂傾けて毎日続けるというのはフツーにはできない。妖精並みでないと。
新居昭乃さんのコンサートを拝見する。びっくり、すごい。時の経つのを忘れる。あんなの見たことがない。アキノさんの脳ミソが全開している。たゆまず為されているのだとつくづく知らされる。(アキノちゃん、お渡ししたチョコは世界一と放言したけれど、僕は名前も知らなけりゃなめたこともないんですー。)
初対面のベーシストBちゃんはカナダの北極圏生まれ。おお、お互い北国生まれ、仲良くやろうぜ。俺っちは自分より寒いところで育ったミュージシャンに会ったことがないもんで、いつも寂しく思っていたよ。ところで俺っちの生まれたところは○Xといってアイヌ語でナンチャラいう意味だぜ、どうだすごいだろう。と言うとBちゃんは、ワラシの生まれたところは△Xといってイヌイット語でナンチャラれーす、と返す。いいねえ、やるじゃないかB。それでは俺っちの経験した最低気温を特別に教えてあげよう。ウソハッタリはなし、正真正銘額面通り、これよりマケたら儲けはなし。零下32度!どうだ参ったか持ってけどロボー。するとBちゃん、ワラシの生まれた時の気温は零下70度れしたー、と涼しげにのたまわれましたので、そろそろお開きにしますか。世界は広い。悔しさで演奏に身が入らず。しかし演奏しながら考えた。「華氏ってことがあるよな?でも華氏って何だ?」
体調躍進するも薬疹発生。あの抗生物質のヤローだ。テメー、この。なまけものとして尊敬申し上げる北杜夫氏は躁鬱病らしい。おっとりしたおとなしい絶滅危惧動物のようなお人柄が躁状態になると一転、テメーこのヤロー、とお叫びになるらしい。押し入れの中で長生きしてほしい。
慣れないスイングする仕事のために、ブラシをどう使ったらスイングするのか研究して出かける。右手でテンテン、左でシャー。多分みんなこうしてるんじゃないかなというところまで嗅ぎつけた! 意外と簡単だ。すごいマジックって意外にタネはシンプルだったりする。ブラシさばきは人体の動きの癖に沿った極めて合理的なものだと推測される。きっとバットスイングも、走法も奏法も、双方とも。なるほどねえと感心しきり。(全然間違ってるかもしれないけど) そして現場ではすべる。コツがわかっただけではだめで、いかに自然な動きだといってもそれを歩くほど繰り返さないとものにはならないのだと知る。感心するのは得意だが繰り返すのは苦手という人は上達しない。神様、抜け道を教えて。
こう毎日熱が上下するんじゃ商売上がったり下がったりでぇい。という訳で医者へ。春は魔物だ見た目はやさしいが身も心も翻弄されてひどい目に遭う。春にはドアも窓も固く閉ざして、ももひきの紐を固く締め上げて、偏屈じじいになってぶつぶつと世間に悪態付きながら熱く湧かしたロシアンティーのジャムをけちる、犬にも煮干しをあげない、そういう人に私はなりたい。そう思って一歩外に足を踏み出した途端、やわらかい風になぶられる。奇跡的な心持ちになる。ももひきは脱ぎ捨てて、犬には鰹の頭くらいくれてやろうじゃないか。
やれやれという訳で、風邪ひきのおっさんでいっぱいの陰気な待合室。ちょっとちょっと、コホコホ言わないでくれませんか。とコホコホしながら言う。ここに来る楽しみは土屋教授という人のばかばかしいエッセイを読むこと(たぶん週刊文春)。どこで何の教授をしているのか知らないけど、偽悪的な屁理屈小理屈満載ですごく趣味が合う。というか師匠と呼んでも支障ないくらい。マスク着用のままクツクツ笑って受付の女性に軽蔑される。お医者には、インフルエンザだったかもね、などと言われ、エッ?!「今さら飲んでもしょうがないからタミフルはあげないけどさ」「こちとら2階から飛び降りて怪我するのはごめんだい」
コメント
> XNOXでもやってみたい
のんびり観てみたい。