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霧の万年床〜楠 均のBGM日記

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      タイコのお稽古

      今年に入ってからドラムの稽古に明け暮れて、とてもブログを書く余裕がなかった。ブログどころか、すべてを投げ打っての覚悟である。継続的努力への挑戦のための覚悟である。

      覚悟というのはなんと悲壮な印象を伝える言葉だろう。しかし始めてみると、すべてを投げ打って何事かに打ち込むのは案外気持ちのいいもので、私利私欲と趣味嗜好とを捨て、私という小さな惑星を離れて、広く宇宙に向けて奉仕活動をしている気になる。宇宙規模の奉仕活動というレベルからみれば、私などゴミのひとつにすぎないのですから何の迷いもなくポイするのです。宇宙や町内の清掃など別に好きでやることではないのに、まさに好き嫌いのレベルでないがゆえに却って清々しい気持ちになる。同時に、直面したくないあれこれの不都合な真実や、生活上の問題点を忘れることも出来る。一石二鳥である。仮にこれでドラムがうまくなりでもしたら三鳥ということになる。

      かように、ドラムの稽古は好きで始めたたぐいのことではないが故に、自分の欲望を脇へのけておいて澄明な気持ちで謙虚に仏壇に向かって手を合わせるがごとく臨むのであって、ああこれこそが伝え聞く無私の境地というものではなかろうか、一心に励んでふと外を見れば既に日は傾いてカラスの群れは山へ帰る、煩悩にまみれた貧しきアブラ虫たちの群れはひと時の安息を得て梅の小枝に安らいでいる、そしてアブラ虫にも似た男女の群れは屋台にぶら下がり、或は家路を急ぐ。おやもうそんな時刻かと我に返れば、ご近所からは芋粥を煮る匂いが漂ってくる。あちらにもこちらにも夕餉の煙が上がっているのが見える。目の前を走り去る猫。盗んだサンマをくわえたその不埒な口から獲物を奪い、さてそれでは我が家もこの天の恵みを仲良く分けあうこととしよう。これポチやお前にも尻尾を分けてあげようね、と言わばそういうことである。

      逆に、好きなことだから貧乏を始めとする様々な苦労にも堪えられるというのは嘘っぱちではあるまいか。好きであればあるほど欲望が増大して、それがまかり通らない時の不平不満も増大して、欲望と不満にがんじがらめになって窒息死するのではあるまいか?好きなことと生業を単純に結びつけることに疑問を唱える意見が世の中に出始めたのは、子供たちの将来にとって案外健全なことだとおもう。

      それはさておき、タイコの稽古によってもたらされる安らぎがかくも大きく、まるで世界が一変するようであることは驚嘆に値しないだろうか?無心の平和がかくもたやすく得られるということを、まだ誰も語っていないとすれば、それを平明につまびらかに語り、悩み多きアブラ虫や男女向けに手軽なストレス解消術として公開しようではないか。道場を開き、或は通信教育で惜しげもなくノウハウを伝授しよう。上達が目的ではないので難しいことは一切しないから師弟ともに楽である。いずれ講演会などで日本中を駆け回ることにでもなれば、毎日の言葉を弟子に印刷させてそれを日めくりカレンダーにして売りさばく。やがてそれが巷で売れに売れてもう笑いが止まらないということにでもなれば、稽古にはいよいよ身が入り、無我の境地がさらにぐいぐい深まること間違いないのだが。

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2008年7月8日 13時9分 | 更新日: 2008年7月8日 13時12分
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      6月14日

      風邪を引いたらしく熱にうなされる。計測すると6度2分ある。熱があると言っていいのかよくわからないけど、具合が悪いものは悪い。夜早めに寝ようとして、布団の上で人さし指に鋭い痛みを感じ、仔細に眺めるけれど傷らしいものも見当たらず、これが伝え聞くカマイタチというものかと感心し、しかしあれは戸外で経験するものではないのかと疑っていると、目の端に黒い大きなものが留り、ぎょっとしたらそれはパジャマにしがみついた蜂だった。なぜここにと思う一方で、もしや俺の一生もこれまでかと焦る。でかすぎて黒すぎて、それが何という蜂なのか僕にはわからない。慌てて息子に見せると、息子はいやいやながらの勉強中で、ただでさえ不機嫌で、ろくにこちらを見もせずにクマンバチだという。こんなでかいクマンバチが世の中に存在するものかと反論すると、じゃあスズメバチかもねと言う。ナニ、俺が死んでもいいのかといきり立つとニヤニヤ笑っているから、もう相手にするのはやめて外に出て力のなくなった蜂を払い落とす。やれやれ蜂が先か俺が先か、と都々逸な気分でおとなしく寝る。

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2008年7月8日 13時6分 | 更新日: 2008年7月8日 13時6分
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      6月1日

      「耳栓とアイマスク」というタイトルの曲を作った頃は、耳栓とアイマスクを肌身放さず持ち歩いていつでも寝れるようにしていた。今はほとんど使うことがないのは、寝なくなったからではなく寝るのがうんと上手になって小道具に頼らなくてもよくなったからだ。一方、「空き缶と段ボール」はもういいやと思い始めたのは、「空き缶と段ボール」に頼らなくても良い音が出せるようになったからではなく、それらがある限り部屋がゴミ箱にしか見えず、精神衛生によくないと分かったからだ。(あるいはセッティングがとても面倒なためだ。あるいは2m以上離れたところにいる人に良い音と認識してもらうためには音響設備に頼らなくてはならないからだ。一般に打楽器として世の中に定着するには、セッティングが相応に簡単であることと、そのまま叩けば嫌でも人の耳に届く音量に恵まれていることが肝心なのだと分かった。)なわけで、よーし捨てるぞと叫びかけたが8日のギャビー&ロペスのライブではやはりはずせないということで叫びを飲み込んで気持ちを新たに部屋でセッティングして叩いてみるとやっぱりいい音がする。音だけ残してモノは捨てるわけにはいかぬかとサンプリングしてみたが、偶然発生する様々なノイズやニュアンスや響きが再現できない。というわけで、もう暫く一緒に暮らしすことになった。因果だなぁ、と思いながら眺めやる処分するつもりでいた大量のゴミたち。

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2008年6月18日 23時50分 | 更新日: 2008年6月22日 22時58分
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      5月31日

      BGM レディオヘッド

       家族がツタヤで大量に借りてきたのを野菜を洗いながら流した。(レディオヘッドで野菜を洗って流しに流したのではなく、レディオヘッドをレディオカセットで聞いたのだ。)初めて聴いたけど、こんな複雑微妙で生真面目な音楽がここ十数年トップセールスを記録し続けているとしたら驚きだ。(ひょっとして歌詞が爆笑ものなのだろうか。)レディオヘッドと関係ないけど、息子が友達にT.REXを貸してくれと言われて後期の「ザ・スライダー」を貸したら「やに大人しいな」と言われたらしく、そういえば近頃のヒット曲はジャニーズでも何でも(というか日韓英米どこの音楽も全部ジャニーズに聞こえるのですが)ひどくノイジーで、というか音の調整の過程でジャリジャリと耳につくように作られているような印象があって、常日頃そういう音に親しんでいたら、それゃT.REXは音質も音数も地味かもな、と思ってあらためて聴いてみると、このアルバムは破れ去った青春の残骸のようなもので、異様にチープな悲しさに満ちていて、これゃ中学生に聴かせるには大人しい以上に不道徳かも。だからぜひ聴いて欲しいと思います。T.REXの生理的な背徳臭に比べるとレディオヘッドは意志が強いというかダラダラしてない。ビジネスマンで言うと、ミートホープの社長とワタミの社長くらいの差がある。これからのニッポンをしょって立つのは無論ワタミの方だろう(と言い切る自信はないが少なくともミートホープに再生の望みはないだろう)けれど、昔のロックは今から見ると随分だらしなかったな。今は中学生もロックもだらしないままでは生きていけない。かといってロックや中学生はだらしなくないとかっこ悪いと言って昔の真似をしてももうだらしなくはならないし、だらしないということは一度諦めないといけないんだろうな。だから生真面目だからといってレディオヘッドが好きになれないということでは全然ない。それに、だらしなさの真の価値に気付かないで、どうせポップスだからと甘えて品質を落とし続ける音楽に対して、レディオヘッドのようなしっかり者がはっきりとNOを突きつけてくれるのはいいことだ。(というかそういうこと言いそうな気がするだけなんだけど。)これからもがんばってほしい。

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2008年6月18日 23時10分 | 更新日: 2008年6月18日 23時20分
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      5/28

      昨夜のウキクサのライブにご来場していただいた方々に深くお礼申し上げます。

      当事者意識を持たないことをテーマに臨んだライブでしたが、いざ始まったら見事に当事者になりきってしまって頭に血が上って、最後は酸欠で前後不覚に陥ってしまいました。それはそれでライブ感覚に溢れていると言えなくもないですが、そういうことは3万回もやってきたことです。次はやはり新しい境地を目指したいということで、翌朝早速キオト氏と反省会を開きましたらば、様々な秘策が次から次へと飛び交い、あいにくノートを持っていなかったので記録する間もなくそれらの秘策が空中に霧消するよりも早くまた新たなアイディアが浮かんでは消えていくということで結局何が何だか分からないながら、ユニット名を「ウキクサ」ではなく「カナカフェ」に変更するということと、それぞれ家に帰って部屋を整理するという具体的な案がめでたくまとまって散会となりました。カナリーニョというポルトガル語の響きもカナリカワイーニョ。カフェ・カナリーニョとドン・ガバチョというかんじです。

      というわけで次回のライブでは野望がはっきりと形をとることになります。7月21日頃、レテでお会いしましょう!

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2008年5月30日 10時48分 | 更新日: 2008年5月30日 10時48分
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      5月27日

      地球に生まれてよかったとつくづく思わされるお天気です。たぶん今日が今年最高の天気でしょう。断言してもいい。登校する息子の背中めがけて、「この地球の奇跡を全身に吸収してこい!そうするまでは帰ってくるな!」と石つぶての如く檄を飛ばした。これを伝えずに死ねるものかという気迫をこめて。振り返った息子は不可解な程の嫌悪をあらわにした。なに今に分かってくれる。日光の強さ、気温、湿度、風の感触、何から何まで素晴らしい。しかしそう思うのは今年既に10回目くらいになるだろうか。ロックアルバム100選みたいな本が沢山出ているらしいが、あなたにとってのベストお天気は何かと聞かれると返答に困る。ありがたいことだ。1年のうちつまらないという天気はそうはない。その意見には私も賛同したい。それでも5月のありがたさはまた格別のものがあると思う。私の生まれ故郷では、中学生になると手をつないでモーッアルト作曲「楽しや5月」を大合唱しながら村ぢゅうを練り歩いたもので、幼い私は早く大きくなって自分もあの輪に加わりたい、楽しや〜5〜月〜と歌いたいと熱望したものだった。いざ中学生になってみるとそんなことは忘れて違うことに熱中してしまった。惜しいことだ。

      5月の最高の1日は、内でもなく外でもないような場所でじっとしていたい。心地よさのすべてを味わい尽くすべく。勿論ハイキングもいい。野山の草を摘んであの娘の髪に飾ろう。手をつないでスキップしよう。歌を歌えば鳥が応えるだろう。

      そんな風に過ごしたいのはやまやまだが、今日はライブがありますのでそうもしていられない。レテで8時か8時半から。出演はキオト&クスノキスによる新ユニット、ウキクサ。数曲を除いて何がどう行われることになるのか僕にもさっぱり分かっていないので、どうぞあなたも心配せずにいらして下さい。キオトさんからは、黙って聴いててもらってもいい、と言われている。なるべく入り込むな、当事者意識を持つな、ということである。電話ではいつも異様に盛り上がってライブからは想像もつかない白熱の会話となる。この会話の中に2人のゲイジツ的野望はすべて達成されていると言ってよいだろう。このセッションは決まって数時間にも及ぶので、電話にはあまり出ないようにしている。

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2008年5月27日 10時5分 | 更新日: 2008年5月27日 10時5分
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      1月10日頃

      去年は、人と出会って音楽を楽しむということをよく味わった一年でした。新しい出会いもあれば旧知の友人とのセッションあり、どれも鮮やかで拝みたいようにありがたく、いちいち書き留めておこうと思ううちにいつの間にか年が明けて、いざ年が明けてみると、それぞれの出来事のありがたさに変わりはないけれど、去年は去年、今年は今年と気持ちが切り替わってしまうこと否みようがなく、明けても暮れても古新聞を漁って今日という現実から目をそらす訓練を積んでいるはずの私でさえ、新しき目の前の現実には勝てないのかと正月早々敗北感を噛みしめています。

      あけましておめでとう。

      正月を境に世界が新たまるという感じは子供の頃に身についたものでしょう。沢山の日本人がこの感じを共有していると思われます。子供の頃に比べれば随分薄まってはいるとは言え根深くて、ちゃらにしないと前へ進めぬと細胞なら言うでしょう。

      さて、11月頃から駅前に薄汚いカスミ網が張り巡らされ、日が落ちるとそれがチカチカと薄気味悪く光を放つのが通るたびに薄ら寒く、こんな寒いことは小さい時分に肝試しに真冬の墓地を駆け抜けたときでさえなかった、というようなことを以前書きました。せっかちなそのカスミ網にまんまと引っかかってしまったのか、正月まであと2ヶ月を残した時点で、ああもう何もかもすっ飛ばかしていきなり正月になってはくれぬかと思ったこと、さらにその気分を幾分かは引きずりながらついに年を越したことを思い出します。今日とか明日とかいう細かい仕切りや、毎日顔を洗う、食う、犬のフンを拾うなどという生活のあれこれが一切面倒になって、ただただ正月の朝9時に、自分が銭湯の湯船にお麩みたいにふくれて浮かんでいる様を思い描いて恍惚となりました。時間のたがが緩んで実に大雑把になっているのです。ビデオみたいに時間をシュルシュル早回ししてないことにしてしまいたいのです。エッもう11月かい、と驚くのです。10ヶ月という時間がこんなにあっけなく過ぎてしまうものなら、あと2ヶ月くらいついでに消去されても困らないしヘタすると気付きもしないかもしれない。オレにとってその2ヶ月はあってもなくてもいいんじゃないか? というような投げやりというか槍投げと言うか、ある種ニヒルと言うか、そうそう「湯船で麩」という時に「湯船で屁」は心地よい自然な放出であるが、放つ度が過ぎて投げやりになると、したくもない屁が2度までも出てこれは「二へリズム」と呼ばれて国じゅうを強烈な虚無のビートで満たすと言うか。槍投げも投げやりも現実なら、そこから救い出してくれるのもまた現実で、もしも早回ししてたら変わり映えのない犬のフンだけでなく、数々の出会いもまたすっ飛ばかされたはずで、本当にそうしないでよかった。動物はやはり日々に感謝だ。

      日々感謝を唱え続けた動物の一例として、私は自分の祖母を思い出すのですが、彼女が人の親切に対し素直な感謝の気持ちを表す姿を目撃したことがないのは興味深いことです。空念仏は祖母にとって果たし得ぬ夢だったのでしょうか。あるいは表現の技術(作法)を身につけ損なったのでしょうか。作法や技術を私自身も長い間軽視して、お茶や生け花の型のようなものによって人の純真は失われると単純に思い込んでいましたが、近頃日常の中で、そして演奏のさなかに身につまされるのは、作法の欠落によって心を逃すことがあるということです。心でも衝動でも好きなだけ気前良く量産できるというものではないらしいですね。二へリズムの野蛮なビートではなく、作法によって隙間を埋める後半生でありたいと思います。これでは相田みつおか五木寛之ですね。いや、よく知らないのにそういうことを口走る軽卒もついでに改めたいものです。

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2008年1月13日 16時9分 | 更新日: 2008年1月14日 10時36分
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      12月12日

      12月15日は「ZABAKARAQUJILAOX」のライブです。場所は秋葉原のドレス東京です。店にはチケットが残っているのです。どうぞ慌ててご入手ください。

      本当はZABAKARAQUJILAOKINOXというのだったかもしれません。しかし、前者はお尻がLAOXとなっていて、ヨドバシカメラに踏みつぶされようとしているラオックスへのささやかな応援語になっているのです。ささやかですが。もともとそう素敵な店という訳じゃないですが、電気屋がそう素敵である必要もまたない訳ですから。そしてビカビカに眩しいヨドバシに比べ、今では人影もまばらなラオックスはもはや牧歌的とさえいい得るのですからね。

      毎日、ここという時に言葉が出てこないで数分間苦しんでは青ざめ、1人であれば諦めるしかなく、そこにたまたま通りかかる人でもあれば青ざめた顔で「ひとつものを訊ねますが!」と声を振り絞って問うてみるが僕が何を思い出したいのだかその人には伝わらない、ということを繰り返し、さて本日は「引き立て役」という言葉が出ずに大変苦しみました。たまたま勘の良い親切な人に巡り会って正解を頂くことが出来たから良かった、ありがとう。もうひとつ、これは引き立て役よりよほど簡単な言葉が出てこないでもっと苦しみましたが、やはり助けていただいた、ありがとう。しかし数時間経ってみると、それが何だったかもう思い出せない。その言葉のことを、たった一日で2度も失った勘定です。言葉は、親切な行きずりの人とともに去ってしまいました。そうして、もう永遠に思い出せないかも知れませんね。だが、もしかしたらそんな言葉最初からなかったのかもしれない。こうも思い出せないと、そんな気になるものです。幻の。だとすれば、いたしかたない。いたしかたない、としか言えない。言えない、とは言え、とはいえ、ハトは家、ドレス東京にて福袋が売り出されることになっています。どうぞお早めにお買い求めください。メンバーそれぞれ知恵を絞って何か用意する手はずですから。

      とはえもあ、僕は自分で選曲したCDを用意します。冬と言えばストーンズのWINTERです。レコードしか持っていないのでネットを見てみたら、「73年何月発売」と書いてあり、おお、あれは73年のことであったか、僕は友人から借りたのをオープンリールテープに録音して、寝小便も凍る布団の中で毎晩聴いたそうかあれは73年末の寒い冬のことであったかと、長々感慨に耽っていたために肝心のダウンロードを忘れてしまいました。もしも来年機会があれば必ずこれを入れます。カナダ人のブルース・コバーンのHAPPY GOOD MORNING BLUESにも、やはり北国の冬のいい感じが歌われています。でもこれはネット上のストアに置いてないのです。(ナップスターとかならあるんですか?)WICHITA LINEMANもなくて驚きました。カラオケはあるのに。ふざけてますね。67年全米第3位ですよ。今や全米も形無しですわね。煎餅だって米から作るのにね。チーフタンズのWOMAN OF IREIANDもないですからね。あれがないなんて氷河が全部溶けてなくなるようなもんです。そうなるとパタゴニアも形無しですわね。そういうないないずくしから選曲した、人によってはあまりクリスマスらしくないと思うかもしれない私的クリスマスアルバムです。もうパーティーはうんざりだ、改札付近でゲロ吐くのはやめろ、悪趣味な駅前のイルミ(ネーチャンならまだしも)ネーションは爆破だ、そういえば近頃一般家庭の部にも蔓延しつつある悪質なイルミネーションには寝しょんべんでもお見舞いするぞ、ついでに西欧のカボチャ祭りにうつつをぬかす若い母と子などはみんなカボチャになっちゃえ、ちちんぷいぷい!と一刀両断の国粋主義的な貴方に贈るには日本語の歌が一曲も入ってなかったのは手落ちでした。その代わり、一人静かに台所で冷や酒に酔う向きにはいいと思います。(下北沢駅の改札前で、まだ紅顔の若者の鋭いゲロを浴びた話を当ブログに書きましたか。まずそのことが思い出せず、更にそれが去年のことか、今年のことか思い出せません。)

      それでは、HAVE A GOOD HOLLY NIGHT!

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2007年12月13日 1時9分 | 更新日: 2007年12月16日 12時49分
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      11月3日

      知人がヘンデルの「メサイア」全曲演奏会に参加されるというので見に行った。牧師さんのお説教つきで全部で3時間ほどもある大コンサートの前半は、目の前にいる美しいバイオリニストに見とれるうちに瞬く間に過ぎてしまうという罪深さ、これは宗教的な罠かとさえ思われた。休憩後は一転悔い改めて、なるべく視線を方々に散らすように努力した。

      そうして気がつけば、曲もデカイが編成もデカイ。合唱なぞ200人はいる。この200人が、どちらかというとふさぎがちな楽器の人に比べると実にあられもないほど表情豊かで、一見して歓びに満ちておられる。並外れた歓びが顔面からほとばしって、もともとの顔の造りが分からない方もいる。一体全体何が合唱隊をしてそこまでの喜びに駆り立てるのか。

      合唱嫌いな人が僕の身近にいて、その人は学校のクレゾール臭い斉唱の響きにアレルギーがあって、そのあおりでママさんコーラスもクアルテート・エン・シーも、果てはジャクソン5まで嫌いになってしまって、新婚間もなく無類のジャクソン5好きの夫と口論になって以来、夫婦の間で合唱は触れてはならぬタブーとなった。それがいわゆる合唱問題と呼ばれるもので、そういう人が今夜この光景を見たら何と思うだろう。僕自身は、今ここで君も歌の輪に入りたまえと言われても困るけど、泣く子と合唱には抗えない、と感じる。泣く子だった頃、たぶん襖の蔭から垣間見でもしたのだろうと思う、合唱の陶酔感。自分を遥かに越えた大きなものに包み守られる安心感とか、そういうものと一体になることの(100%官能的な)快楽とか。

      自分がそうだからといって「人間は」と一般化するのは軽卒かもしれないけど、「人間は」放っとくと自分のことばかり考えて、音楽でもやればミューズの助けで、或いは年をとればボケの力で、少しは救われるのかというとまるでそんな気配はなくて、むしろ自分勝手が重症になるばかりで、ああこの世は逃れがたい地獄巡りだぜと思うのがオチで、そこいくと合唱のようにひとつになることを目指す場というのは、自分を無視して無私や虫になれる数少ない機会で、それは疲れたから人里離れた神秘の温泉につかってまた明日から街に戻って頑張ろうということである以上に、ここで虫として自然の一部になっている感覚こそが生き物としての私の幸せの骨頂ではなかろうかと思わせるものがあるように感じられて、それだから僕はその他大勢の合唱団の前でつい無力で、その中で喜悦に溶けてしまいたいと思う一方で、でも合唱の輪の中に入ると本当に溶けてもうこちら側に戻ることができないんじゃないかという怖さもあり、それはジャクソン5嫌いな女人の合唱に対する嫌悪感と通底するものがあると僕はコンサートのさなかに感じた。だからと言って、合唱にも入らずに元バンドマン(57歳)、みたいな半端なことの延長で生きているのは、気楽に見えてそれはそれで群れからはぐれた狼というか迷える子羊と言われればまさにそれに相違ないとは思う。ただ、そう思ったからと言って、突然合唱の一員になって、己を捨てました、と朗らかに笑えばそれで良き音響に寄与到達できるかというとまたそれは別の話で、何しろもう何万年か群れから離れていたので、勘を取り戻すのに時間と修練が要る。

      (性欲を持て余す若者が何かの間違いで読んだら自分と関係ない話だと思うかもしれないから言っとくけど、この話は君の性欲と同じくらいビビッドな話だ。30年後に会おうぜ!)

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2007年11月27日 16時18分 | 更新日: 2007年11月27日 16時18分
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      11月2日

      スルメ状の物が路上に落ちていて、長年の経験からそれはスルメであるはずがない、大ぶりの落ち葉であろうと判断した。異様に温暖であった今年もようやく晩秋となりにけるかも、とサザエさんの登場人物のように呟いて通り過ぎようとして、その正体が知れ、思わず立ち止まった。それは木の葉ではなく、のしたイカでもなく、車にのされてペタンコになった蛙だった。この日だけでそれを3体、というか3枚目撃した。異様なことである。「のし蛙」は春から初夏にかけての風物詩であったはずで、その季節、道のあちこちに平たくなった蛙が貼り付き、或いは体重を失って軽やかに風に舞ってるのをよけながら駅までの道を急ぐ、なんてのもまた風情であるがしかし、東京に住んで30年、晩秋にこれを見た憶えはない。これは風情の範疇にない。わろし。(息子がそばで枕草子を読まされている。)蛙だけではない。花粉も奮然と飛翔しているらしく、マスクで顔面を覆い尽くしている人の数は3体では済まなかった。今に蛙も花粉も、人間並みにメリハリのない生活を送るようになるのか。わろし。

      Posted By XNOX クスノキス | 投稿日: 2007年11月17日 17時16分 | 更新日: 2007年11月17日 17時27分
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