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霧の万年床〜楠 均のBGM日記2007/12 | ||||||
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去年は、人と出会って音楽を楽しむということをよく味わった一年でした。新しい出会いもあれば旧知の友人とのセッションあり、どれも鮮やかで拝みたいようにありがたく、いちいち書き留めておこうと思ううちにいつの間にか年が明けて、いざ年が明けてみると、それぞれの出来事のありがたさに変わりはないけれど、去年は去年、今年は今年と気持ちが切り替わってしまうこと否みようがなく、明けても暮れても古新聞を漁って今日という現実から目をそらす訓練を積んでいるはずの私でさえ、新しき目の前の現実には勝てないのかと正月早々敗北感を噛みしめています。
あけましておめでとう。
正月を境に世界が新たまるという感じは子供の頃に身についたものでしょう。沢山の日本人がこの感じを共有していると思われます。子供の頃に比べれば随分薄まってはいるとは言え根深くて、ちゃらにしないと前へ進めぬと細胞なら言うでしょう。
さて、11月頃から駅前に薄汚いカスミ網が張り巡らされ、日が落ちるとそれがチカチカと薄気味悪く光を放つのが通るたびに薄ら寒く、こんな寒いことは小さい時分に肝試しに真冬の墓地を駆け抜けたときでさえなかった、というようなことを以前書きました。せっかちなそのカスミ網にまんまと引っかかってしまったのか、正月まであと2ヶ月を残した時点で、ああもう何もかもすっ飛ばかしていきなり正月になってはくれぬかと思ったこと、さらにその気分を幾分かは引きずりながらついに年を越したことを思い出します。今日とか明日とかいう細かい仕切りや、毎日顔を洗う、食う、犬のフンを拾うなどという生活のあれこれが一切面倒になって、ただただ正月の朝9時に、自分が銭湯の湯船にお麩みたいにふくれて浮かんでいる様を思い描いて恍惚となりました。時間のたがが緩んで実に大雑把になっているのです。ビデオみたいに時間をシュルシュル早回ししてないことにしてしまいたいのです。エッもう11月かい、と驚くのです。10ヶ月という時間がこんなにあっけなく過ぎてしまうものなら、あと2ヶ月くらいついでに消去されても困らないしヘタすると気付きもしないかもしれない。オレにとってその2ヶ月はあってもなくてもいいんじゃないか? というような投げやりというか槍投げと言うか、ある種ニヒルと言うか、そうそう「湯船で麩」という時に「湯船で屁」は心地よい自然な放出であるが、放つ度が過ぎて投げやりになると、したくもない屁が2度までも出てこれは「二へリズム」と呼ばれて国じゅうを強烈な虚無のビートで満たすと言うか。槍投げも投げやりも現実なら、そこから救い出してくれるのもまた現実で、もしも早回ししてたら変わり映えのない犬のフンだけでなく、数々の出会いもまたすっ飛ばかされたはずで、本当にそうしないでよかった。動物はやはり日々に感謝だ。
日々感謝を唱え続けた動物の一例として、私は自分の祖母を思い出すのですが、彼女が人の親切に対し素直な感謝の気持ちを表す姿を目撃したことがないのは興味深いことです。空念仏は祖母にとって果たし得ぬ夢だったのでしょうか。あるいは表現の技術(作法)を身につけ損なったのでしょうか。作法や技術を私自身も長い間軽視して、お茶や生け花の型のようなものによって人の純真は失われると単純に思い込んでいましたが、近頃日常の中で、そして演奏のさなかに身につまされるのは、作法の欠落によって心を逃すことがあるということです。心でも衝動でも好きなだけ気前良く量産できるというものではないらしいですね。二へリズムの野蛮なビートではなく、作法によって隙間を埋める後半生でありたいと思います。これでは相田みつおか五木寛之ですね。いや、よく知らないのにそういうことを口走る軽卒もついでに改めたいものです。
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