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霧の万年床〜楠 均のBGM日記

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      2007年07月10日

      5月11日 その2。 

      ヤクルトー阪神戦at神宮。もう2月も前のことになってしまった。でもあまり違和感がないのは何故だろう。年々歳々時間感覚があやふやにふやけてきていることと関係があるだろうか。

      3週間前のことも3年前のことも同じところにある。半年前のことが15年前のことより昔のことと感じられその結果古い新しいを謂うことが意味をなさなくなっていることが多々ある。印象的な出来事は記憶に鮮明で、そうでない出来事はぼやけているという話でもなくて、全体的に遠近感が不確かで、25年ぶりに人と会っても特に懐かしくはなくフツーに話している。10年前に102歳の老人に会いにいった時には強い感慨を覚えたものだけれど、今はそいうことはないだろうと思う。聖徳太子の亡霊とかに遭遇したらさすがに隔たりは感じるだろうけれど、話してるうちに人間って中身はさほど変わってないなと思うような気もする。ボケたのだろうか?(ボケたのだろう。)でもボケたと言うはたやすい。むしろ、小さすぎるタンスの抽き出しがいっぱいになってしまったので物が(記憶が)溢れ出して散らかり入り乱れて前後も左右も不覚になってしまった、というイメージでとらえたい。散らかった部屋を見れば一目瞭然ではないか。涼しい目をした一人の若者によって今朝届けられたばかりの真新しい新聞も、黄ばんだ上にコーヒーのしみで更にどす黒くなった10年前の古新聞も当たり前のように混在共存している。ホラ見ろ、それが現実というものではないか。わかりやすいではないか。

      記憶や聞きかじった知識は実体験の枠を超えているから、部屋の中より混乱の度合いはひどくて、たとえば21世紀と聞けばキリストなんてついこないだの人じゃないかと思うし、信長やバッハに至ってはまるきりの同時代人だ。ボケたというより、むしろスレたということだと思う。記憶が散らかり、感受性がスレたのだ。

      人は何故スレるのか。一つには死に対して鈍感になる練習をしているためと考えられる。(これは渡辺氏の鈍感力、ではなくて赤瀬川氏の老人力と響きあう感覚だと思う。むろんどちらも読んだことはないが、読まなくったって顔を見れば大体分かる。)で、もう一つには地球を外から見せられたことがあると思う。(ウケウリだけど。)地球は青かった、と聞けばひゃあ!、地球は宇宙から見れば塵に等しい、と聞けばフムフムてなもんです。そのようにして、日々の感覚からほど遠い巨大物差しに慣れてきた。

      でもこないだ、このスレきった慣れきった感覚を揺るがす記事を読んだ。温暖化がらみの話だったと思うけど、安定して寒かったはずの長い氷河期の間にもしょっちゅう気温が上昇していたらしく、その度に氷がいっぱい溶けて、あちこちで極端な異常気象が起こっていたという。その頻度が10万年に25回、つまり4000年に1回と言うから日常の感覚からすると十分に珍事というか異常と言っていいような気がするけど、やっぱり専門馬鹿というくらいに学者のスレ方は並大抵でなくて、記事の向こうには「こう度々起こることでいちいち大騒ぎしていては身が持たんぜ」みたいなニュアンスが感じられる。そうか俺はまだまだうぶだった、キリストが同級生と感じられるくらいでは全然スレ足りない、10万年あればキリストだって飽きるくらい復活できるはずだがそれとてあっというまの出来事かいな、ひゃあ!とまたしても感心し、ついでに仕入れたばかりのピッカピカの10万年物差しを子供相手にひけらかしたりして今後は10万年程度でビビるまい、もはや想定内だからね、と嬉しがる。しかし4000年や10万年は想定内だとしても、100万年と言われるとまだビビるし、1000万年になると更にわけが分からない。ここで僕は唐突に恐竜のことを思い出して驚いた。恐竜が滅んだのは6500万年前と言われている。6500万年と言えば極地の氷や気象にしてもちっとはこたえる長さではないのか? その間にはくしゃみもすれば風もひく、鼻毛も伸びりゃ白髪も生えるという位の、地球にとってさえ見過ごせない長い時間を隔てたその向こうに、あの身近な動物が生きていたとは。(その時代の地球上の匂いやら湿気やらは、僕らにしたら随分不思議なものだったんじゃないだろうか。安易に言えば別世界っていうか別惑星っていうほどの。)

      本当は恐竜は身近じゃなかったということなのか。10年くらい前に、図鑑やCG映像で恐竜たちを繰り返し見て名前もたくさん覚えていくうちに、ついつい象やバッハや長嶋なみに近しく感じていたのだ。しかも僕の苦手とする鳥類の祖先である証拠が次々に発見されるもので、毎日カラスを見るたびに恐竜を思い出すこととなり、恐竜に対する近さ(同時代感)は切実な恐怖を伴うことによっていよいよ近くなり、いよいよ時間の遠近感は失われていったと言うか狂っていったと言うか。絵で見て知識として親しんでいるから近くにも感じられ、新たな知識(たとえば氷河期の生理的な周期とか)によって今度は急に遠くにも感じられたりする。どちらにしても日常の時間感覚とは無縁の、言わば架空の話だし、感覚と言っても錯覚の上塗りみたいなことかもしれないけど、これを「錯覚に過ぎない」というような言い方で切り捨てるのはよくないと思います。実感を侮ってはいけないし、とにかく短気はいけない短気は。

      1つの体の中にいろんな回路が走っていてけっこうバラバラに働いている気がしてなりません。1日を生ききる意志でもって何とかつじつまを合わせているけれど、閉店後のミスタードーナツの店の前を見れば分かるように、売れ残った大量のドーナツがどこかに存在していて不意に耳の穴からバラバラこぼれてこない保証はない。体はミスドほどにもきちんと統合されていない気がする。(ま、ドーナツだったら喜んで食べちゃうけど。)

      恐竜の話に戻ると、恐竜がカラスの祖先であると言われるとカラスが怖い人は恐竜まで怖くなる。でもカラス自身はといえば「おいおい何もとって食おうてんじゃない。こっちへお寄り!こっちへお寄りてんだよ全くクマ公ときたらしょうのない臆病者だね。どれどれ、そんなに怖いならちょいといたずらしてやろうかね。」と言ってるだけのような気がするのに、このビビッドな恐怖には理性で対処することができません。何故鳥が怖いのかと人に問われて、まだ小さなネズミだった頃に恐竜から逃げ回っていたときの記憶が残っているから、などと言うのですが、カラスではなく本当に怖いのは恐竜だったということは如何にもありそうな話ではあります。曰く、普段あまり意識しないで使っている古い脳は、意味がないほど遠い昔のことをきっちり記憶していていまだに律儀に反応している、というような話。曰く、意識というものは脳の表面で日々揺れ動く波のようなもので、時折「遠近感が狂う!」などと浅はかに叫んだりする、というような話。ま、それはどうでもよいのですが。

      | Posted By XNOX クスノキス 投稿日: 2007年7月10日 10時17分 更新日: 2007年7月10日 10時17分

      コメント

        あまりにも、とほうもなく、
         含蓄のある話ですねい

      余計な心配ではありますが
       「5月11日 その2。」
        のためにこれだけの長文を
         したためていると
        これは演奏時間を
       執筆時間に振り替えないと
      2ヶ月の時間差は
       どんどん広がるのぢゃ
        ないでしょか  ?
         (むろん、それもよし)
      by 松島玉三郎 - 2007年7月10日 13時8分
      松島君、思いきりスキップしないといけないかもしれませんね。
          写真素晴らしいね。
      by XNOX クスノキス - 2007年7月10日 17時18分
      楠元気にしてるかい? 名古屋で暫く単身赴任だわ。 F画伯と飲んで、楠木の噂してたんだわ。 今日も名古屋はどえりゃあ蒸しとっていかんがや。 名古屋コンサートあったら連絡してや!
      by meteo - 2007年7月16日 16時59分
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