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モヘンジョだろ!!

2005年02月01日

中尊寺ゆつ子という友人について 

午後、電話ちゃんから「chusonji.comに中尊寺ゆつこが亡くなったって書いてあるけど、改暫されてるんじゃないの?」みたいな知らせを受けて慌ててアクセス記録を調べたりして、どうやら変なアクセスは無いことが分かり、ということはこの内容は真実なのか!?…ということで、急逝を知った。

確か年賀状が来てたし、元気そうなことが書いてあったよななんて思いながら、本人の携帯電話をコールするわけにもいかず、せめてスムーズにchusonji.comからデータを送り出そうと思って、ちょこちょことチューニングしてみた。でも、いくらシステムの割り当てリソースを増やしても全然追い付かない。アベレージで20Mbpsを越えたあたりで諦めて、それ以上のチューニングをやめた。

chusonji.comに訃報が載ったのは9時半過ぎのようだ。どうにも信じられないので、アシスタント氏の携帯電話番号を過去メールから掘り出そうとしたんだけど、どうにも出て来ないし、出て来たとしてもやっぱりまだかけられないような気がして、2ちゃんねる検索で色んなスレを眺めてみる。昼過ぎにはテレビニュースで報じられたようだ。うーむ。こうやってリアリティが積み重なってくるんだな。

中尊寺さんと知り合ったのは多分、1999年あたりにやってた著作権についてのアーティストの意識を高める(←この説明は思いっきり端折ってるけど)ことを狙ったMAAという組織のミーティングだったように思う。もしかしたらMP3について思いっきり技術的な解説をした第一回目の勉強会から出席してくれていたかもしれない。その後、中尊寺さんはコアメンバーに入ってくれて、MAA関連の色んな会議やイベントで同席した。複雑で形而上的になりがちな著作権についての議論で、皆が煮詰まったような時に「でもさ〜」みたいな良い意味でユルい感じですごく分かりやすい話に落としてくれて、かつ本質をうまく捉えた例え話なんかもしてくれて、なんというか、女性的なのにスマートっていうのはこういうことか!と感心した憶えがある。当時、著作権等管理事業法が成立しかかっていて、その狙いは音楽著作権管理の事実上の独占状態をなんとかしようということだったから、MAAも音楽著作権について意見を述べることが多くなってしまって、建築とかデザインとか漫画のような分野からの参加者には即時役立つようなことが少なかったにも関わらず、割とイデオロギーみたいなところから、技術の話や、法的テクニックやみたいなややこしいことまで面白がってくれた、(コアメンバーの中でも)珍しい人だった。

そういう繋がりで、なんとなく1999年3月にchusonji.comを取得するのを手伝って、中尊寺さんとアシスタント氏が一生懸命頑張ってウェブサイトを作るのも手伝ったりした。時期の前後は忘れてしまったけど、そのお礼で、フレンチレストランに連れてってもらったりしたなぁ。どこだったか忘れてしまったぞ。その佇まいは良く憶えてるんだけど。ボルドーのワインを飲んだのも憶えてる。確か、車で来てるのに1本飲んだらたいへんなことになるということで我慢してハーフボトルにしたような。

あと、横浜の家にもMacintoshの何かを直すみたいな目的で訪ねたことがあった。アトリエで何をどう直したのかよく憶えてないんだが、アシスタント氏と中尊寺さんの母上と犬の記憶があって、ディナーを一緒にいただいた。中尊寺さん自身が作ったサラダとかパスタとかが一杯出てきてすげーびっくりした。たしかそのときにはじめて小林さんをパートナーとして紹介してくれたんじゃなかったかな。俺こんなにもてなされてるよ!いいのか!?みたいな気持になった。

そんな感じで折々で接点があったんだけど、僕が忙しくてウェブサイトが落ち着いてからはなかなか会う機会もなく、たまに講演会の会場から電話がかかって来てビデオのミラーリングってどうやるか分からないから2分で教えて!とかどこかの家電量販の売場から、目の前の部品のうちどれ買えばいいの?とか、そういう楽しい電話がかかってきたりとか、改めて考えると、倭央くんが産まれることとかニューヨークの家に無茶苦茶金がかかったこととか、アフリカ行くこととか…割とマメにメールくれてたなぁ。そういえばスパムが増えて来たから対策教えてみたいなメールが来てたのに返事できてなかった。今となってはとても悔しい。今からでも返事書いたら普通にまた返事が返ってくるような気がする。

最後に会ったのは、一体いつなんだっけ...小林さんがディジティミニミにiBookか何かの設定だか修理だかに来てくれたときには中尊寺さんは結局来れなかったような気がするし。その前に一回くらいは二人で遊びにきてくれたような気もするし、もしかしたらそれは錯覚かもしれないし。

僕の中では、CLUB KINGのDICTIONARYでボーギングをしてるっぽい上半身の写真を見て「中尊寺ゆつこという漫画家はこんなに綺麗なのか〜っ!?」と思ったのが始まり。そういう人と、ひょんなことから微妙に年上の友人として色んな機会を共有できるようになって、それがずっと続くもんだと何も考えずに思ってたんだけど、いきなりそうじゃなくなった。いきなりすぎて、まだまとまらないや。

まあ、まとまらないままに。

| Posted By nt 投稿日: 2005年2月1日 10時26分 更新日: 2005年2月1日 10時43分

コメント

竹中さん、お知り合いだったんですね。
僕は1990年前後かな、どこでどうして知り合ったかも憶えていないですが、あの頃、夜遊びしていたたくさんの共通の友人の中で知り合いました。
ニューヨークに移住する前まではあちこちで顔を合わせた気がします。
僕がたくさんたくさんDJをやっていた頃で、たぶん、僕のDJで踊ってくれたこともあったはず。岡崎京子さんもいたな、よく。
本当に信じられません。僕より全然若いのに。
ご冥福をお祈りします。
by Reviewed by Kentaro Takahashi - 2005年2月2日 1時4分
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鯖寿命 

某サーバ機がいきなり死んだので夜中タクシーでサーバセンターまで様子を見に行った。

山手通りを適当に歩いてるとちょうど信号待ちをしてる個人タクシーを発見したのでなんとなく得した気分だ。個人タクシーは深夜2割増だから、普通の企業タクシーより1割得なんだけど、それよりも最近気づいたのは、白地に青いラインがあって、★が三つほどついてるタクシーは、性能が良いから乗車してて楽なのだ。企業タクシーのボロめの車だと他の車と並んで走るのがやっとの感じがするんだけど、個人タクシーはスイスイ走る感じがして、結局乗ってる間のストレスというか、気疲れみたいなものが相対的に少ない。あと全部ではないけど運転が滑らかで道をよく知ってる人が多いようにも思う。というわけで今まではあまり意識してなかったけど、これからはなるべく個人に乗るようにしようと思った。

のはさておき、行ってみたらマザボが死んでる風味。モニタとキーボードを接続して復活の舞を舞いつつ祈りながらスイッチを入れてもBIOSまで行けない感じ。モニタは真っ黒。悩んでてもしょうがないので、サービスを復活させるために代替機を探し求めてウロウロしたんだけど、あいにく使えそうな手持ちの機材がないので、ちょっと他のサービス中のサーバを融通してみた。

方針が決まったらまああとはHDDとメモリとPCIボードを移して調整して終り。しかし、マザーボードが死んだサーバ機は本当にどうしようも無い箱になってしまう。1Uに入れるために特殊な作りになってるから、旧くなると替えようがなく、捨てるのにも金かかるし...みたいな状態になってしまってとても弱る。

そういう箱が最近ちょっとずつ確実に増えて来た。一ついくら払えば目の前から消せるんだろうか。ていうか、そういう箱を眺めてると悲しくなる。今まで頑張って動いてたのにね。修理できたらいいのに。

| Posted By nt 投稿日: 2005年2月1日 8時24分 更新日: 2005年2月1日 8時24分

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