a person powered by ototoy blog
霧の万年床〜楠 均のBGM日記2005/10 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
30 | 31 | |||||
2005/11 | ||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 | |||
2005/12 | ||||||
1 | 2 | 3 |
「1:2」
体力不足をお嘆きの会員のみなさん、
それでもなんとかお元気ですか。
自らの非力を自慢げに語るのはヨクナイ癖だと
ヒトに言われますが、非力ゆえにこんなことも長くは
続きますまいからもう少し自慢させてください。
今日の自慢は「1日働いたら2日休む」、です。
大雑把な話ですが、1日働いたら翌日は安静にする。
そして翌々日はまじめで元気な時なら予習したり
復習したり。
(そうでもないときなら、散歩やバカ話ができるまでの
回復をみることにあてられるでしょう。)
現実にはこの比率が「1日:2日」となることは稀で、
「3日:6日」になったり、「17日:34日」になったり
するし、3日働いて1日休んで2日働いたあと翌日は
夕方から深夜まで働いて、次の1週間は休めるけど
その次の3週間は休みなしでコンビニ食、
でその翌日から予定表は天下晴れて空白、茫然自失
とかになることのほうがフツーです。
僕としてはある程度長いスパンの中でこの比率が守られ、
健康が保たれることを願うのみです。
「1:2:?」
でもよく考えると、労働と休息だけが人生ではなく、
旅をしたり寅さんを見たりXNOXをしたり、
はたまた押し入れの整理とか、古新聞を捨てたり
捨てる前に拾い読みしたり捨てるべきか悩んだりとか、
犬の毛を抜いたあとで子供の宿題を見るとか、などの
様々な楽しみと雑事が人生を構成しているでは
ありませんか。
これらは実はボーダイなエネルギーと時間を要するもので
あることは意外に知られていません。
これら、実はボーダイな時間たちにとりあえず「?」の
名称をつけて新しいひきだしを作るとします。
さて、もし仮に10年休まず働いたとしたら
続く20年は安静にしなければなりませんから、
そうなったら「?」のひきだしを開けるのは30年後
ということになってしまいます。
ひきだしを開けてみたら、やや!古新聞と犬の毛と
子供の宿題が30年分溜まっている!のです。
その上XNOXとしての活動も80歳まで持ち越されて
しまうではありませんか。
先日の甘槽幸子さんではありませんが、もし現実に
そうなったらそれはそれでステキなことですが、
何しろ80まで生きるという保証はどこにもなく、
それどころか今迄の経験からいうと、むしろ安静にしている
ときほど体調がおかしくなる傾向があるのですから、
安静期に入って間もなく60歳くらいで死んでしまう
でしょうよ。
万がいち奇跡的に生きのびたところで、80すぎて
古新聞の整理とXNOXを始める元気が僕に残って
いるでしょうか?
いやいや、とてもありはしますまい。
ま、しかし幸いなことに、今のところスケジュールは
天下晴れてむこう10年空白です(大雑把に言えば)。
いっさいの労働を断って、古新聞を枕にひたすら呆然と
していることだって可能なわけです(理論上は)。
「静かなる始動、或は静かすぎる始動」
さあ、今日はこの天からの賜物の如き、ひきだしの中の
へそくりの如き「?」の時間を有効に使って、
11/30のライブに向けての作業を開始することに
いたしました。
空は晴れて風も穏やかです。
まずは外に出て深呼吸をして1日の計画を練ることに
しましょう。
それから、コーヒーをいれて鉛筆の芯でも削りましょう。
さて、それが済んだらXNOX用の機材を置くための
スペースを作らないといけませんのでね、
散乱したドラムスティックやらMDやら空き缶その他
得体の知れない無数の漂着物を整理して、積み上げられて
ピサの斜塔状に危険に傾いた打楽器類を押し入れにしまって、
それから変色した古新聞のコレクションを選り分けて捨てて
と・・・、まー今日はそこまでかなあ。
MJBコーヒー(1kg入り)のグリーンの缶が欲しくて
買いましたが、中身を持て余し、袋詰めにして
冷凍してあります。
もし、MJBコーヒーの中身を愛好しているという方が
いたらもらっていただけませんか。
手渡しできる方に限るのですが。
(コーヒーを入手せんが為に11月30日の「XNOX」
ライブに出かけてみるというのも一つの手です。)
以前、「耳栓とアイマスク」という曲をつくったことが
あります。
家でも楽屋でも旅の途中でもとにかく居眠りすることの多い
自分にとって欠かせないアイテムだったので、愛着を込めて
捧げた曲でした。
その耳栓を、このところドラム演奏時に装着しています。
昔から大きな音が苦手だったのですが、ここ2年の間に
驚異的に退化してしまった視覚とあたかも対をなすように、
耳もいっそうの弱体化が進み、もはや耳栓なしでは
他の人が何を演奏しているのか、更に困ったことには
自分が何を演奏しているのかさえよくわからなくなって
きました。刺激で麻痺してしまうのです。
耳栓をすると、自分が、そしてバンドが何をやっているのか
よくわかります。
とてもクールになれるし、疲れません。
万々歳と言いたいところですが、もちろん容易に想像が
つくように耳栓越しの音は、長屋の薄い壁越しに
隣家の夫婦喧嘩の様子を伺うようなもので、当事者感が
希薄になります。
どっちの言い分ももっともだけれど、でもおツネさん
ちょっと言い過ぎじゃないの、みたいな客観的なというか
傍観的な視点に立てるのは新鮮で楽しいのですが、そこには
実際に皿が飛び交い爆発的咆哮や号泣と鉄拳がぶつかり合う
現場、言い換えればカオスは存在しません。(正確に言えば
無いことにしてしまえます。)
カオスの無い人生を送っていいのか?という妙な倫理的
脅迫観念が僕にはあり、それは汗や血やおしっこが
飛び散ってこそライブ!のような激しい音楽現場観に対する
気後れにもつながっています。
もちろんこの年になれば、汗やおしっこの力を借りなくても
音楽は生き生きしたものでありうるし、人間の持てる力を
フルに使えばおよそ肉感的ではない出来事(音楽)も
生々しい臨場感を獲得するものであることはわかっている
のですが、何しろ大きい声や大きい音というのは通りが
よくて、その通りの良さだけで一つの権力足り得るのです。
そうした特権的音量(怨霊?)に負けたくないという意識が
どこかにあるために、小怨霊(?)であることや虚弱で
あることをダシに使わなければならないのかな。
ちょっと話の方向がずれてしまいました。
問題は、耳栓で音量を切り捨ててしまうこと(クールさを
獲得すること)の功罪ですが、これはもう少し使い続けて
みないとわからないことです。
でも、功罪の有無は別として、スタジオで耳栓をとった
瞬間に猛烈な勢いで鼓膜を襲う音、音、音(人の話し声、
シンバルの残響、ギターアンプのジーというノイズ、等)は、
実に攻撃的で銃弾的というか、僕がとっさに思い浮かべた
のは切りたての空き缶のふたのギザギザが無数に空気中を
飛び交い、鼓膜に突き刺さる様子でした。
いやあ、こわい。
なわけで、ここ当分は耳栓を離せない気がします。
敬愛する虚人のみなさんからの反応誠に嬉しく思いました。
嬉し涙です、チルキャットさん。がんばろうね。
(冷えた猫、って意味?漢方でいう虚証の極みだね!)
何があっても決して走ろうとしないホガリ君には、
我が虚人軍の栄えある1番バッターを務めて
もらいましょう。
甘糟さんを見かけた方から早速コメントがいただける
なんて、虚人群の見えないネットワークの底力ですね。
やっきさん、「朝顔を洗う」って本当にいいですね。
言われて初めて気づきました。それ僕の仕事です。
いつか歌詞に使わせてください。
いけさん、いくら体力があるからって
朝の4時半まで起きているなんて体に毒です。
早く寝てくださいね。
写真をクリックして僕も驚きました。
クリックするだけであんなにデカくなるんですね。
麗しき虚人の会の幻影にうっとりしていましたが、
自ら虚人を名乗っているのは実はチルさんお一人でした。
会員のみなさん、出口を塞いでスパイを逃がさないように
しましょう。
スパイ(福岡)さん、体力のある人はダメって
言ってるでしょ!
でも、おっしゃる意味はよーくわかります。
来季のために、画期的な体力温存法を開発中です。
完成したら発表します。
本当に久しぶりに書きます。
体力がないからなかなか書けない、
というのは言い訳でも冗談でもなく、
夏中働いたのでクタクタだったのです。
クタクタになると横のものを縦にすることも
右のものを左に移すこともままならず、
ブログへの書き込みはおろか、名刺一枚整理することも
朝顔を洗うこともできません。
昔、ある作家(村上春樹ですが)が、必要なのは
才能ではなく体力と書いていました。
たとえなけなしの才能でもマメに気長に取り組むだけの
体力があれば、開花する可能性があるというわけです。
(才能がある人には、一時華々しく開花してすぐ死ぬ、
或いはぐずぐず余生を過ごす、という手があります。)
こないだ、鎌倉に息抜きに行ったついでに美術館に寄って
「篠原 有司男展」を見てきました。
(巨大でグロテスクなバイクのオブジェやボクシング
グローブに絵の具をつけてキャンバスを殴る
アクションペインティングで有名な人です。)
エネルギーの固まりのような作品群に圧倒され
大いに楽しみ、また勇気づけられもしましたが、
しかしここでも強く大きく持続性のある一級の体力が
重要なエンジンになっていることを思い知らされました。
そんなわけで美術館を出た後、そぼ降る雨に打たれて
うら寂しい気持ちでいたのですが、
新聞で目にしたある作家(甘糟幸子という方ですが)
のインタビュー記事に大いに驚き、
うら寂しさが薄れました。
学生時代から小説を書き始め、かなり期待されていた人
らしいのですが、いろいろあって実際に小説家として
デビューしたのは69才だったそうです。
「いろいろあった」の中には病気もあったようで、
それがブランクの一大原因であったことに間違いはない
のですが、ご本人の口調(聞いた訳ではないので
推測ですが)に切羽詰まったところはなく、
(多分医者に)
「根を詰めちゃいけない、そうっと生きてなさい」
と言われて執筆を諦めた経緯を語りながらも
「ぶらぶらしているのは大好きです。」
とおっしゃるのんびりさ加減に頭が下がりました。
更に、一番書きたいことは十代にして頭の中で
完成している、のに、まだ1行も形になっていない、
御年71才にして残り時間が少ないことは十々承知ながら、
「手を動かすまでが大変なの。
外に出て地面を眺めだすとだめ。
あれ、芽が出た、花が・・・とか。
なまけものなのね。」
という頼もしさ。
ちなみに、1作目のタイトルが『楽園後刻』、
2作目が『白骨花図鑑』。
「エネルギーが足りないのね」
「なまけものなのね」
と二重に自覚している人の口(筆)から
このような言葉(題名)が発せられると
体の芯がじ〜んとしびれるような
淡い快感に襲われます。
こうした体力のない人々を集めて、人となりと、
主な仕事(縁側で欠けた器を磨く、とか)を調査し、
年代別、出身地別、あるいはあいうえお順、
体力のない順(体力測定も必要になります)など、
なんでもいいのですが一同に列記した名鑑の登場が
待たれます。
この名鑑、タイトルはどうしましょう?
ストレートに『大日本虚(弱)人名鑑』
と仮にしておきましょう。
これは大部なものになります。
千ページくらいで、続巻もあり、いや、2巻や3巻じゃ
収まらないです。
全部に目を通すことを考えると我が体力への不安が
頭をもたげます。
つーか、そんなもの読む暇があったら、
まず甘糟さんの小説を読めということですよね、
ここまで引用しといて。
コメント
写真、あれは何処へ登ってらっしゃるのでしょうか。
気持ち良さそうです。
人生を「?」で埋め尽くしたい私ですが、
(ジョニー・デップに「?工場」に
連れてってもらいたいス。)
とても大きな声ではいえません。
写真は、瀬戸内海の埠頭に立つ巨大な
バスケットボールのゴール、
ではなく燈台(信号灯)です。
気持ちいいです。