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霧の万年床〜楠 均のBGM日記2007/7 | ||||||
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そうそうヤクルトー阪神戦。試合結果が思い出せない。そのままにしておくとボケが進むという。思い出すよう努力してみる。
右翼席から、左翼の阪神大応援団が見えていたことを思い出す。阪神の応援席はチャーハンに似ている。一人一人の肌の色が丁度良く炒まった米の色で、ユニフォームの白がネギに、そして阪神特有の(虎の)黄色が卵に見えることで炒飯が完成する。でもたったそれだけのことで群集が炒飯に見えたりするものだろうか。阪神応援席と炒飯が瓜二つであるためには色以外にも更に色々な要素が一致している必要があるだろうと推測されるけれど、それが何なのか僕には分からない。デジタルのシミュレーション技術の話で、細部を逐一似せるのではなく大雑把に処理しておくとむしろ似るというようなことを聞くと、阪神ファンの心の大雑把さが炒飯に似ることを可能にしているのだろうかと思う。それとも全員が似たような情熱で「動いている」ことが、炒飯的であるためにはより重大なのかもしれないとも思う。なぜなら戦況不利で静まり返っている時にはそれは炒飯らしいというに留まっているのに、群れがいったん動き出すと途端に炒飯そのものと化して匂いさえ漂ってくるような気がするから。あたかも大量の米粒が中華鍋の中で元気よく跳ねるかのようだ。見えざる料理人の巨大な手が大鍋揺すっているかのようだ。ふつうには有り得べからざる炒飯ぶりだ。もはや似ているというレベルの問題ではない炒飯は象徴としての炒飯なのであって阪神ファンの愛と情熱は何かの形になってこの世に現れずにはいられなかったのだ、とも考えられる。(でもなぜ炒飯なのか、それは分からない。トラが炒飯に化けたのだ。ちび黒サンボのトラバターを思い出す。)「ゴーストバスターズ」という映画で、巨大な真っ白けのスノーマンがニコニコ顔で現れた時の衝撃は生涯忘れられない。反射的に僕は頬ばっていたコロッケパンをシートの背に向かって噴き出していた。ガラ空きの二番館で良かったよ。想念が意味もなく何かの形を取って出現するというのは本当に噴飯もので、本来ならば左翼席に出現した炒飯に対して右翼席から大量の飯、またはコロッケパンを噴出せしめて賞賛の意を表すべきところだけれど、右翼席ときたらホームグラウンドとは思えない白々とした雰囲気で飯どころか野次を噴く元気すらなかった。ヤクルトファンの情熱はこの日乳酸菌に形を変えていて、1人1人の腹の中で人知れず活動していたのだろう。
と、球場はこんなだったから多分阪神が勝ったと推測される。スコアは覚えてないけど。
さあ、5月11日とはこれで永久におサラバだ。そう思うと少し寂しい気もする。
5月11日も「その3」となり、何か特別な一日であるかのような気がしてきます。でもそうではなくて単にヤクルトー阪神戦at神宮。
家族で行く。5月の野球観戦は思いのほか寒く、そういえば去年はダウンジャケットを着込んで見たねと言ってたらいやどんどん冷え込み、来年はやっぱりダウンだね。
もともと家族が行くと言い出して僕は独り家に残ってもいいのですが、行ってみると楽しいということが世の中にはあるもので、行ってみなければ楽しいかどうか分からないというようなあやふやな賭けには普段は応じない、というとほとんど家から1歩も出ないことになるけれど、自分1人なら絶対に出かけないと分かっている野球場はその心理的距離ゆえに却って、「まあ一度くらいなら行ってもいいか」という気にさせられたのである日行ってみたら、これが楽しいかもしれないと予想された枠一杯に楽しくて、つまり予想外に腰が抜けるほど楽しいというほどではないけれど、そこそこの楽しさがぬるま湯みたいにいつまでも丁度よくて、それで誘われるままについて行きます。楽しみのぬるさ加減が銭湯に似ている。(銭湯の湯自体は熱すぎると感じています。)
球場というのは思いの外しけた場所で、たとえばサントリーホールなどと比べると内と外を隔てるための物理的・心理的な装置や仕掛けに乏しく、いわば馬鹿でかいコンクリート製のバケツを風が吹き抜けているに過ぎません。バケツのあちこちに穴があいていて、そこから風とともに人が出入りする。出入りのたびにドブネズミになったような気がします。お洒落も洗練もないのです。だけど多分そこがミソで、薄汚れたコンクリートバケツに、まるでそこが楽園だと信じているかのように幸福なドブネズミの男女が集うと、不思議なことに「確かにそうかもしれない」と気の迷いが生じてきます。緻密に設計されたサントリーホールにペルシャ猫が集っていい音が響いてうっとりするのは当たり前ですが、薄汚いコンクリートバケツの中でネズミになってワクワクするというのは解せない話ではありませんか。
もちろんコンクリートバケツといったって馬鹿でかいのであって、でかいということはそれだけで人間にとってスペクタクルであるから、入口から入ってスロープを上ってなみなみとたたえられたカクテルライトのプールの中に頭が突き出たその瞬間にバケツ内部のスケールがどっと感覚に押し寄せてくる快感はちょっとしたものです。神宮だとこれに夕暮れの空が必ずついてきて、これもいいものです。特異なアートです。誰もアートを見に来てなくて、アートと無関係に飲み食いしたり騒いだりうろついたりラッパ吹いたりしている乱雑なアートです。乱雑とはいえ一応野球観戦のため集まっているので、人々の顔つき、振る舞いには共通性が見られ、その場限りの連帯感のようなものがうっすらと漂わなくもない。ゆるい参加型のアートです。人がいっぱいいる群像アートです。(現代中国の政治的なアートが、クローン群像を配置することで全体主義への批評の向こうに皮肉な哀愁を漂わせているのと決定的に違うのは、作者の意図に支配されていないという以上に、作者がいない、という点でしょうか。)
同じ球場で行われてもロックコンサートなどと違うのはメインイベントの重みでしょう。野球においてつまらない試合というのは当たり前で、むしろ片時も目が離せない試合に遭遇するなど僥倖に等しいことはみんなわかっているから、「夕焼けが赤かった」と言ったり、「ばかやろう、やめちまえ」などの罵声によって一応の決着がついてまあ釈然とはしないまでも無事家路に着くわけだけれど、スタジアムで行われるコンサートとなれば最低でも「期待どおり」は期待されるわけで、「ライブは最悪だったけど夕焼け雲は良かったねえ」とか「暇つぶしになった」という感想は少ないだろうと思う。
スポーツに限っても、野球ほど客がゲームに集中していない競技は他にないのではないでしょうか。メインがメインでないようなところがある。少年野球チームの一行などが束になってくるけれど、彼らの目的は攻守の変わり目に外野手が観客に向けて放るボールにある。サラリーマンの男女が連れ立って、あるいは待ち合わせてという光景も必ず目にします。そのうちの一人が泥酔してひどい野次を飛ばす。女性社員に絡む。グループの端っこの方では社内の人間関係が話題になっている。誰かがフライドポテトと焼きそばを買ってくる。オーッと声上がる。ビールを追加する。エビス生のエンジのユニフォームのお姉さんはいつも笑顔で経験豊富。飲みたくなくてもつい買ってしまう。でも内野席に回ってしまった。近くにはアサヒの瓶のお姉さん。まあいいや。一人が立ち上がり夕陽に手を振りアサヒを呼ぶ。アサヒまぶしくスタンドを駆け上る。この寒いのに半裸でご苦労さん。いえ仕事ですから。ベルトに挟んだお札が今日は少ない。親方に叱られなければよいが。(今夜もたくましく可憐な娘たちが北海のクリオネのように球場を飛び回っている。)さて応援団はと目を転ずれば、彼らは激しい応援行為と一般客を束ねての音頭取りに忙しく、まずもってゲームを見る余裕はないでしょう。そんな中に、声を上げずじっとグラウンドを注視する人たちがいる。この人たちは内野と外野の境目の最上段に近い、誰も近づかない極北のようなエリアにぽつぽつ散在しています。お祭り騒ぎの新宿歌舞伎町の端っこに雨のそぼ降る城ヶ島がある、と言ったらわかりやすいでしょうか。わかりにくいでしょうか。この人たちは目立った飲食をしない。缶ビールをちびちび飲む。紙袋からあんぱんを取り出して時折かじる。9割は一人で来ている。7割はサラリーマン風。あとは学生風、フリーター風。たまに老人風。たまにアベック風。と言ってもいちゃいちゃしない。僕が中学生だったら夏休みの自由研究はここに座る人たちへの聞き取り調査です。ゲームに集中したいのか、黄昏れたいのか、不倫の行方に思いを馳せているのか、そもそも人ごみが好きなのか嫌いなのか。訊いてみたいことがたくさんあります。退屈するとこのように球場内をうろつきます。場所によって眺めが大きく変わる。驚くほど。くらくら目眩がします。宝くじに当たってバックネット裏や内野指定席からの眺めも味わってみたいものです。(ひょっとしてそこでは試合がメインなのか?)
ヤクルトー阪神戦at神宮。もう2月も前のことになってしまった。でもあまり違和感がないのは何故だろう。年々歳々時間感覚があやふやにふやけてきていることと関係があるだろうか。
3週間前のことも3年前のことも同じところにある。半年前のことが15年前のことより昔のことと感じられその結果古い新しいを謂うことが意味をなさなくなっていることが多々ある。印象的な出来事は記憶に鮮明で、そうでない出来事はぼやけているという話でもなくて、全体的に遠近感が不確かで、25年ぶりに人と会っても特に懐かしくはなくフツーに話している。10年前に102歳の老人に会いにいった時には強い感慨を覚えたものだけれど、今はそいうことはないだろうと思う。聖徳太子の亡霊とかに遭遇したらさすがに隔たりは感じるだろうけれど、話してるうちに人間って中身はさほど変わってないなと思うような気もする。ボケたのだろうか?(ボケたのだろう。)でもボケたと言うはたやすい。むしろ、小さすぎるタンスの抽き出しがいっぱいになってしまったので物が(記憶が)溢れ出して散らかり入り乱れて前後も左右も不覚になってしまった、というイメージでとらえたい。散らかった部屋を見れば一目瞭然ではないか。涼しい目をした一人の若者によって今朝届けられたばかりの真新しい新聞も、黄ばんだ上にコーヒーのしみで更にどす黒くなった10年前の古新聞も当たり前のように混在共存している。ホラ見ろ、それが現実というものではないか。わかりやすいではないか。
記憶や聞きかじった知識は実体験の枠を超えているから、部屋の中より混乱の度合いはひどくて、たとえば21世紀と聞けばキリストなんてついこないだの人じゃないかと思うし、信長やバッハに至ってはまるきりの同時代人だ。ボケたというより、むしろスレたということだと思う。記憶が散らかり、感受性がスレたのだ。
人は何故スレるのか。一つには死に対して鈍感になる練習をしているためと考えられる。(これは渡辺氏の鈍感力、ではなくて赤瀬川氏の老人力と響きあう感覚だと思う。むろんどちらも読んだことはないが、読まなくったって顔を見れば大体分かる。)で、もう一つには地球を外から見せられたことがあると思う。(ウケウリだけど。)地球は青かった、と聞けばひゃあ!、地球は宇宙から見れば塵に等しい、と聞けばフムフムてなもんです。そのようにして、日々の感覚からほど遠い巨大物差しに慣れてきた。
でもこないだ、このスレきった慣れきった感覚を揺るがす記事を読んだ。温暖化がらみの話だったと思うけど、安定して寒かったはずの長い氷河期の間にもしょっちゅう気温が上昇していたらしく、その度に氷がいっぱい溶けて、あちこちで極端な異常気象が起こっていたという。その頻度が10万年に25回、つまり4000年に1回と言うから日常の感覚からすると十分に珍事というか異常と言っていいような気がするけど、やっぱり専門馬鹿というくらいに学者のスレ方は並大抵でなくて、記事の向こうには「こう度々起こることでいちいち大騒ぎしていては身が持たんぜ」みたいなニュアンスが感じられる。そうか俺はまだまだうぶだった、キリストが同級生と感じられるくらいでは全然スレ足りない、10万年あればキリストだって飽きるくらい復活できるはずだがそれとてあっというまの出来事かいな、ひゃあ!とまたしても感心し、ついでに仕入れたばかりのピッカピカの10万年物差しを子供相手にひけらかしたりして今後は10万年程度でビビるまい、もはや想定内だからね、と嬉しがる。しかし4000年や10万年は想定内だとしても、100万年と言われるとまだビビるし、1000万年になると更にわけが分からない。ここで僕は唐突に恐竜のことを思い出して驚いた。恐竜が滅んだのは6500万年前と言われている。6500万年と言えば極地の氷や気象にしてもちっとはこたえる長さではないのか? その間にはくしゃみもすれば風もひく、鼻毛も伸びりゃ白髪も生えるという位の、地球にとってさえ見過ごせない長い時間を隔てたその向こうに、あの身近な動物が生きていたとは。(その時代の地球上の匂いやら湿気やらは、僕らにしたら随分不思議なものだったんじゃないだろうか。安易に言えば別世界っていうか別惑星っていうほどの。)
本当は恐竜は身近じゃなかったということなのか。10年くらい前に、図鑑やCG映像で恐竜たちを繰り返し見て名前もたくさん覚えていくうちに、ついつい象やバッハや長嶋なみに近しく感じていたのだ。しかも僕の苦手とする鳥類の祖先である証拠が次々に発見されるもので、毎日カラスを見るたびに恐竜を思い出すこととなり、恐竜に対する近さ(同時代感)は切実な恐怖を伴うことによっていよいよ近くなり、いよいよ時間の遠近感は失われていったと言うか狂っていったと言うか。絵で見て知識として親しんでいるから近くにも感じられ、新たな知識(たとえば氷河期の生理的な周期とか)によって今度は急に遠くにも感じられたりする。どちらにしても日常の時間感覚とは無縁の、言わば架空の話だし、感覚と言っても錯覚の上塗りみたいなことかもしれないけど、これを「錯覚に過ぎない」というような言い方で切り捨てるのはよくないと思います。実感を侮ってはいけないし、とにかく短気はいけない短気は。
1つの体の中にいろんな回路が走っていてけっこうバラバラに働いている気がしてなりません。1日を生ききる意志でもって何とかつじつまを合わせているけれど、閉店後のミスタードーナツの店の前を見れば分かるように、売れ残った大量のドーナツがどこかに存在していて不意に耳の穴からバラバラこぼれてこない保証はない。体はミスドほどにもきちんと統合されていない気がする。(ま、ドーナツだったら喜んで食べちゃうけど。)
恐竜の話に戻ると、恐竜がカラスの祖先であると言われるとカラスが怖い人は恐竜まで怖くなる。でもカラス自身はといえば「おいおい何もとって食おうてんじゃない。こっちへお寄り!こっちへお寄りてんだよ全くクマ公ときたらしょうのない臆病者だね。どれどれ、そんなに怖いならちょいといたずらしてやろうかね。」と言ってるだけのような気がするのに、このビビッドな恐怖には理性で対処することができません。何故鳥が怖いのかと人に問われて、まだ小さなネズミだった頃に恐竜から逃げ回っていたときの記憶が残っているから、などと言うのですが、カラスではなく本当に怖いのは恐竜だったということは如何にもありそうな話ではあります。曰く、普段あまり意識しないで使っている古い脳は、意味がないほど遠い昔のことをきっちり記憶していていまだに律儀に反応している、というような話。曰く、意識というものは脳の表面で日々揺れ動く波のようなもので、時折「遠近感が狂う!」などと浅はかに叫んだりする、というような話。ま、それはどうでもよいのですが。
神宮でヤクルトー阪神戦。ってもう2ヶ月近くも前のこと。後出しOKと居直ってはいたものの、これはもう日記とは呼べないかもしれない。ブログというのは多分リアルタイム発信を前提としているからこそブログなのであって、これではもうフロクとも呼べないかもしれない。
しかし考えてもみてほしい。5月のことを7月と偽って書いたからと言って誰が気にするだろう。もっと言えば1年前のことを書いたとしても誰も困らないし、時事ネタと天気の話題を避ければ、さとられさえしないに違いない。読み返した自分さえ気付かないかもしれない。第一これを読む人の中にヤクルトと阪神がどうなろうと気にする人はまずいないだろうし、バースや若松が出てきて安来節を踊ったところでどうということはないのだ。黙って書いてしまえばいいのだ今日の日付で。いけしゃあしゃあ堂々と。いやいや彦六、それはできない。嘘をつくと悪い夢を見る。小心翼々とクヨクヨと明け方にため息が出る。根が几帳面ときている。キヨにも随分褒められた。
しかし、その几帳面さの中途半端なこと。辟易する。几帳面さが徹底していれば後出しくらいで後ろめたく思うこともないし、(他人事ではあるが)今回の社会保険庁による失態も起こらなかったろう。記帳などのお役所仕事はやはり尋常でなく几帳面な人にやっていただきたい。もしもあなたが尋常でなく几帳面に生まれついたとしてそれは誇るべき宝だと断言してもいい。
そうそう、17世紀のイギリスの海賊が分厚い日記を残したらしくそれは本になって翻訳も出ている。むろんまだ読んではいないが、読まなくったってこれが最高であることは分かりきっている。だいたい海賊という職業だけで十分最高なのだから、その上まめに日記をつけるほど几帳面だなんてこれは最高の二本立てだ。
小学6年の時に町の映画館で見た「レット・イット・ビー」「真夜中のカウボーイ」もそういう意味では最高の二本立てだった。怪獣映画は勿論、じめじめした舟木一夫と明るすぎる若大将も抱き合わせだった。「怪盗大旋風」「黒ひげ大旋風」他のディズニー二本立ても最高だった。なぜ今あれを子供たちに見せないのか、さっぱりわけが分からない。「狼王ロボ」で大いに泣き「三匹荒野をゆく」で大いにハラハラ愉快になろうではないか。
だいたい昔は入れ替え制なんてスカした制度はなかったぜ。親父どもは自分の都合に合わせて出かけて行って映画館に入るや大いびきをかいて好きなだけ寝ると適当に帰って行く。それのどこが悪い、てなもんだ。誠に堂々たる日本の恥だった。それにしても「十戒」と「ベン・ハー」の(全米ライフル協会会長主演)二本立ては悪夢だった。一体何時間やれば気が済むんだベン・ハー! あなたのいつ果てるともない悲惨な奴隷暮らしが羨ましくなるほど辛く長い一日でした。でもどんなに辛くとも僕は途中で席を立たなかった。そのおかげで中途半端に我慢強く几帳面な人間になった。
コメント
うぅ、見たかった。
ゴーストバスターズ!
私もあれにはびっくりでした。
こんなには
動かない
んだよね?
噴飯写真だね。
すごく似てる!
優勝だったら動くよ、きっと。
そうそう、マシュマロマン。
名前もいいね。