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霧の万年床〜楠 均のBGM日記2005/10 | ||||||
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以前、「耳栓とアイマスク」という曲をつくったことが
あります。
家でも楽屋でも旅の途中でもとにかく居眠りすることの多い
自分にとって欠かせないアイテムだったので、愛着を込めて
捧げた曲でした。
その耳栓を、このところドラム演奏時に装着しています。
昔から大きな音が苦手だったのですが、ここ2年の間に
驚異的に退化してしまった視覚とあたかも対をなすように、
耳もいっそうの弱体化が進み、もはや耳栓なしでは
他の人が何を演奏しているのか、更に困ったことには
自分が何を演奏しているのかさえよくわからなくなって
きました。刺激で麻痺してしまうのです。
耳栓をすると、自分が、そしてバンドが何をやっているのか
よくわかります。
とてもクールになれるし、疲れません。
万々歳と言いたいところですが、もちろん容易に想像が
つくように耳栓越しの音は、長屋の薄い壁越しに
隣家の夫婦喧嘩の様子を伺うようなもので、当事者感が
希薄になります。
どっちの言い分ももっともだけれど、でもおツネさん
ちょっと言い過ぎじゃないの、みたいな客観的なというか
傍観的な視点に立てるのは新鮮で楽しいのですが、そこには
実際に皿が飛び交い爆発的咆哮や号泣と鉄拳がぶつかり合う
現場、言い換えればカオスは存在しません。(正確に言えば
無いことにしてしまえます。)
カオスの無い人生を送っていいのか?という妙な倫理的
脅迫観念が僕にはあり、それは汗や血やおしっこが
飛び散ってこそライブ!のような激しい音楽現場観に対する
気後れにもつながっています。
もちろんこの年になれば、汗やおしっこの力を借りなくても
音楽は生き生きしたものでありうるし、人間の持てる力を
フルに使えばおよそ肉感的ではない出来事(音楽)も
生々しい臨場感を獲得するものであることはわかっている
のですが、何しろ大きい声や大きい音というのは通りが
よくて、その通りの良さだけで一つの権力足り得るのです。
そうした特権的音量(怨霊?)に負けたくないという意識が
どこかにあるために、小怨霊(?)であることや虚弱で
あることをダシに使わなければならないのかな。
ちょっと話の方向がずれてしまいました。
問題は、耳栓で音量を切り捨ててしまうこと(クールさを
獲得すること)の功罪ですが、これはもう少し使い続けて
みないとわからないことです。
でも、功罪の有無は別として、スタジオで耳栓をとった
瞬間に猛烈な勢いで鼓膜を襲う音、音、音(人の話し声、
シンバルの残響、ギターアンプのジーというノイズ、等)は、
実に攻撃的で銃弾的というか、僕がとっさに思い浮かべた
のは切りたての空き缶のふたのギザギザが無数に空気中を
飛び交い、鼓膜に突き刺さる様子でした。
いやあ、こわい。
なわけで、ここ当分は耳栓を離せない気がします。
コメント
ふらふらしてしまうことがあって、
ステージ上の人たちは大丈夫なのだろうかと
思っていましたが、やっぱり大変なのですね。
音が波であることを実感します。
音は武器になるですね。
関係ない話ですが、ヘッドフォンで音楽を聴いていて自分の世界に入りまくりの時に、家人がふっと目の前に現れるとえらいびっくりします。
心臓麻痺おこすぐらいのびっくり。
別に悪いことはしていないと思うのだけれども。
別役実(だったかなあ?)が、入院して読書三昧に
耽っていた時の快楽を考察して、それは明らかに
背徳の味がすると書いていたのを思い出しました。
他人を排して何かに耽ることは、それだけで悪いこと
なのだという考察には妙な説得力があると思いませんか。