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霧の万年床〜楠 均のBGM日記2006/10 | ||||||
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2006/11 | ||||||
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ラジオからショパンが流れてきました。
ショパンが流れてくる度に、なんてもったいぶって無神経で俗っぽい音楽なんだろうと思ってついラジオを止めてしまうのですが、それってどうなんだろうと今朝は思いました。
ショパンが悪いんではなくて、ここ150年ばかりの間に世界中に蔓延し尽くしたショパンの亜流に冒された僕の耳が悪いんじゃないだろうか。
ショパンの気持ちをストレートに受け止めることができなくなっているのじゃないかしら。
吉田秀和という齢90を越えた音楽評論家が何だか地味な時間帯に番組を持っていて、この方の声は秋の枯葉がかさこそ鳴ったり錆びた木戸の蝶番がきいきい鳴ったりするようなそんな趣きです。
その吉田さんが特集する作曲家がショパンとかショスタコービッチとかリヒャルト・シュトラウスとか、絶対自分と無縁と言うか、なるべく近づきたくないような名前が多く、従って番組を聞こうと思って聞くことはまずないのですが、現実の時の流れから取り残されたような地味な時間帯にふっとこちらが迷い込んでしまうことがあり、間違ってスイッチをいれてしまうとそこから流れてくる音楽の新鮮さにハッとさせられる、というようなことが二度三度あるうちに、自分の思い込みや偏見に対する疑いの念が湧き上がってきました。10年ぐらいかけて。
先入観(刷り込み)は恐ろしいもので、僕の妻はバカラックの「サンホセへの道」を聞くと地方の小都市のしがないショッピングモールが思い出されて「どうにもたまらん」と言います。
自らの思い込みに足下をすくわれないようにするために、時々は吉田さんの番組を聞いてみたいと思うのです。
が、何しろ「現実から取り残された忘れ去られた時間帯」というだけで、正確に「何曜日の何時」と把握している訳でもなく、お年もお年なので気がつかぬうちに番組終了ということもあり得る。
どうぞ長生きしてください、秀和さん。(敬愛を込めて「ヒレカツさん」と私は呼んでいる)。
連日の秋晴れに閉口しています。
そそられるところが多くて、じっくり落ち着いて何かに取り組むことができません。
家族が買い物に出るとか、どこそこに行くとか言うと、用もないのについていきます。目前の義務はほおって、気がつくと長めの散歩や、ご町内サイクリングをしている。
これではいけないと思い、早めに寝て、早起きして宿題を片付けようと机に向かうのですが、夜も明けぬうちから頭を使うのは健康に悪いような気がして、ぐっすり眠っている犬を叩き起こして短い散歩に出ます。
すると東の空は見事な朝焼けで、
「ああ早起きして良かった。なあ犬よ、お前も嬉しかろ。」
と言われて、犬は迷惑そうに渋々ついてきます。
見事な朝焼けは5分のうちに消えて、本格的な朝の気配が訪れます。
公園の木々に小鳥が密集して、やかましいほどに鳴き立てます。これが夜中だったらさぞかしコワイだろうな、と思いました。
つくづく、人間も鳥もTPOだなと思います。
微笑ましい行動も、場とタイミングが違えば狂気の沙汰になる。
鳥や犬はおおかたTPOに沿って律儀に生きているようですけど、
人間は外しっぱなしでコワイ。
しかるべき条件に沿って滞りなくモードを切り替えていけば、世間も人間も丸く収まるような気がするのです。宿題は、したくなったらするとか。(そんなことありえないか、宿題である以上。)
人間にも自然界にもいろんなモードがあるけど、モードがいったん切り替わると後戻りできません。楽しい酒席に邪魔が入ったらもうさっきまでの馬鹿話では盛り上がれないし、あんなに暑かったのに今はもう秋。(でも昨日は蝉が鳴いてたなあ。)
モードに従って、カチッとスイッチが入ってパキッと行動できたらいいのに、そうはいかないので困る。
動物はうまくやっているのだろうか。繁殖期や冬眠があるのはとてもいいことだと思う。競争の激化とか、大変なことはいろいろあるだろうけど、気分はすっきりすると思う。
覚悟を決めて生きるしかない。
抜け道がいろいろあるとすごく複雑で面倒なことになる。
それで救済されるということや(たとえば、高校に入るのに内申書が重視される傾向が出てきて、試験に失敗した子にもチャンスが与えられる)、経済効果や楽しみが増える(プロ野球がプレーオフ制度を導入したせいで、やたらと大事な試合が増えました)ことはあっても、厚塗りの化粧みたいなものでどうも嘘くさくなる。嘘というより空しいというほうが近いでしょうか。だって、確かに改善されるところはあるけど、新しい弊害もまた確かに生じる。帳尻はどうかと言うと、一歩進んで二歩下がる人生はワンツーパンチ、ってとこじゃないでしょうか。(慰めをいえば、明日は三歩進めるかもしれない)
無駄なことはやめて、もう一歩も動かないでじっとしていればいいと思うけど、それだと退屈するんだろうか。それとも、目の前に何か問題があるとそれをなんとかしようと思うのが人間なのだろうか。
(仮にそのせいで三日後に全体が破綻するとしても)目の前のほころびを繕うことが絶対的急務と認識されるのだろうか。
息子が1才くらいのとき、この子がビルの屋上から降って来たら、反射的に手を伸ばして身の危険を顧みずなんとか救おうとするだろうと僕の腕が言い張るので驚いたことがありました。その現場を想像してみても、脳内の涙腺につながるヒロイックな部位は1ミリも刺激されませんでしたので、それは愛情(というようなこみいった感情)に先立つ反応だと、僕は実感しました。(子供が海に落ちたという場合を想定すると、これは僕は手出ししない。水が苦手な僕は、人を助けるどころか100%確実に自分が溺れ死ぬことがわかっているから、反射的に飛び込まないことを選択するでしょう。野生に曇りがなければ、一瞬のうちに損得勘定するでしょう。子供が空から降る場合は、自分が死んでも子供が助かることがあり得ると踏んでいるに違いない。そのように自他をごちゃ混ぜにしての損得判断のことを、愛情と呼ぶのかどうか、僕は知らない。ちなみに、その後息子をプールに通わせて、万が一の時には自分の命は自分でなんとかするように、更に僕が海に落ちた時には彼に助けてもらえるように、手は打ってある。)
それからしばらくして、博愛ってあるなと思ったことがありました。
自分の子供だから命に代えても反応する。でも同い年の子を見たら自分の子がその子にだぶるから、怪我くらいですむなら反射的に手が伸びるだろう。そうして救いの輪は、密度がどんどん薄まりつつも、外へ外へ、より他人へと広がっていく。(薄まっていくのは博愛じゃないか。薄愛?)
このエセ博愛の大きな問題点は、対象が自分の子と同い年の子に限られるという点です。かつて、我が子同様いとおしく思えた街角の乳飲み児や、サルなみの幼稚園児たちを、以前ほどにはかわいらしく思えなくなっていることを告白しなければなりません。まあそれでもサルなみにかわいいとは思う。子を持つ以前には感じなかったことなので、エセとはいえ、博愛の効果はあった。(でも博愛主義っていうくらいだから、やっぱり博愛は意志なんだよね。僕のはせいぜい博反応とか博反射どまりですね。)
話はそれましたが、緊急事態にまず対処する(後のことは考えない)というのは大事なモードのひとつなんでしょうね。文部科学省もプロ野球も野生の命ずるところに従っているだけなのかもしれません。
ああ、長い無駄話で秋の空が台無し!
注:写真はイメージで本文とは関係ありません。
段取り段取りと毎回しつこいですが、段取りの話は今回で終わりです。
さて、段取りのさなかにエリントンを聞いたために脱線した話を前々回いたしました。
脱線した軌道を修正して、翌日無事に仕事先に向かったのでありますが、そこで私は意外な経験をいたしました。
リハーサルであれレコーディングであれ、耳栓なしにはもはや演奏できないと随分以前にこの場をかりてこぼしたことがあります。長年の耳の酷使によって耳が疲弊して大きな音量に耐えられなくなったせいだとその時は結論したのでした。ところがこの日私は耳栓なしでかつてなく気分よく、音楽的くつろぎを感じながら演奏することができたのです。
なぜだろう?理由をあれこれ詮索した末に思い当たったのは、前日音楽鑑賞に耽ったことでありました。後先を忘れて音楽を聴くことによって心身がほぐれハナウタまじりの楽しい気分に私は浸されておりました。全身が音楽を友と認知し、感覚から澱が洗い流されて、乾ききっていた鼓膜はフレッシュな音楽をいっぱいに含んだスポンジのようになって指先でつまむとじゅっとジュースが滴るほどでした。(それは明らかに馴染み深い耳垢とは別種のものでした。)その結果世間に対する警戒心や気後れ、あるいはいいとこを見せようという功名心から開放されていたのだと思います。すると不思議なことに、音量を上げなくても音楽が聞こえてくるとまではまだ確信を持っていえませんが、少なくとも私はいつもと正反対にどんどん音量を下げていって耳に負担をかけることなく録音をつつがなく終えることができました。この調子でいけば、近い将来ヘッドフォンをしなくても音楽が聞こえるようになるかもしれませんね。
帰る道すがらの電車内において、浮かれて私は次のような結論を導き出しました。どうぞひとつ聞いてください。
「演奏することにつきまとっていた感覚的障害(違和感)を、音楽鑑賞が取り除いてくれた」のではないだろうか?
これを、「感覚的障害と思い込んでいたものが、実は心理的障害だった」という話にしたくないのは、それが実感と違うからです。
私はドラムプレイヤーであり、「XNOX」において自作自演芸を目指す身であります故、ぼーっとしているとき以外はなるべく創作しドラムに励むようにと神様からユルくご指導を受けています。
(ところがこの神様のユルさもあってか、ボーッとする時間があまりにもボーダイで、仕事というといつも火事場の馬鹿力頼りというか、火事場泥棒のように追われるように逃げるように大慌てで進めなければいけなくなるのが常です。火事場泥棒はなぜいつも火事場泥棒的なのか。火事場泥棒の心理に分け入った音楽評論家の意見を聞いたたことがありませんが、火事場泥棒こそ日頃から音楽鑑賞して、いざという時に備えるべきでありましょう。ハナウタのひとつも歌ってこそ、普通なら見つけることのできない金庫の中のダイヤモンドや焼き栗を易々と発見し、さながら自分のために神様が用意してくださった誕生日のプレゼントであるかのように、それら盗品を喜びのままに持ち去ることもできるというものです。たぶん。)
そのせいでここ何年も音楽鑑賞をなおざりにしてきた、のみならず音楽鑑賞を積極的に軽視する傾向さえあったのでした。
BGMは途切れずにあって、すごい音楽なのにBGMにもなるという重宝な音楽もあって、そういう意味で音楽に不自由した覚えはないのですが、ながらでなく、利害でもなく(その音楽から何か盗んでやろうとか)、虚心にスピ−カーと面と向かうということはなかなかしなくなった。(もちろん音楽の無限たれ流しを可能にしたテクノロジーも大きく関与しています。)私の感覚(耳)が危機に陥ったのは、ほったらかしにされていた音楽からのしっぺ返しだったかもしれません。
段取りが苦手なことは前回書きました。苦手意識というものは、失敗体験をいくつも重ねることによって更に強化されていくものです。私の言う段取りというのは、具体的に言えば必要なドラムセットを過不足なく用意するというもので、それを聞けば何も知らない素人さんはナニそれって小学生が時間割どおりに教科書やら揃えるのといっしょじゃん、とかおっしゃるに決まっておる。まあね。おおむねその通りである。だが違っているのは時間割にないオプションを自分で考えなければいけないことです。たとえばスネアはどれ、タムは何個、シンバルはどうだとか、本日はそれにマラカスでもひとつくっつけて賑やかにやらかすか、とかそういうことである。これは大方どうでもいいと言うか、いくつ持って行っても使うのはひとつであるとか、持って行ったはいいが半分は使い物にならない不良品であったとか、そういう結果に終わるものだ。しかし大方そうであるからと言って万が一ということは常に可能性としてある。可能性としてあるかぎり手を抜かないのがプロフェッショナルというものであって、そこらを歩いている素朴な小学一年生などといっしょにされては叶わない。
そうして揺るぎなく手を抜かず万全を期してもなおかつ漏らしが生じるところに苦手の苦手たる所以があるのである。今年一番痛かったのは、バスドラムを叩くためのビーターという棒の先に大きめのお団子をひとつ付けたものを忘れたことです。シンバルもタンバリンも人にくれるほどたくさん持って行ったのに、ビーターがなければドラマーは・・・エーと・・・後家も同然です。そのこころは、夫(音)がない。・・・。さて、スタジオにいたすべての人に頭を下げてまことに済みませぬがビーターの余分、持ち合わせはございませぬかと問うても持っている人はいない。世の中にビーターを鞄に忍ばせて毎日持ち歩く人は僕も含めてざらにはいないことを確認した後、知り合いの正義の味方に電話で泣きついたところ、たまたま何本か転がっているから今すぐとりに来なさいと言う。さすが正義の味方。作業をどれほど遅らせることかと暗澹たる思いでしかしワラにもすがる思いでタクシー走らせその方のもとへ駆けつけてみたらば目とヘソの先くらいの近さで命拾いとはこのことでありました。おかげさまで今でもその時の仕事仲間から絶縁されずにおります。とこう書いているうちに、この件に先立つ数ヶ月前、ペダルを忘れた件を思い出しました。常に、古い失敗は新しい失敗に覆われていくものです。ズンズン響くバスドラムがバンドサウンドのエンジンであるならば、それを鳴らすためのギアであるペダルは車で言えばアクセルである。どうりで形も似ている。タクシーやバスの運転手がアクセルを忘れて仕事になりますか。いや、ならない。この時は横浜のみなとみらい地区での仕事で、みなとみらいに楽器屋はあるまいと絶望していたら1軒だけあって、そこに1本だけあったペダルを購入してことなきを得た。念には念をいれたにもかかわらずこのような結果であることが、私の苦手意識を日々強化しているのです。我が家でもっとも段取りが得意な妻(多分全然自慢にならないと思う、気の毒だけど。)は、いっそのこと道具目録を作成して赤ペンでチェックせよとか、同種のものを一カ所に集めておけとかいろいろな忠告を(かつては)くれたものだが、それらはどれも当たり前すぎる堅実な内容であって、当たり前で堅実なことが実践できるならば世の中にメタボリック症候群は存在しないし、英会話を夢見ながら失意のうちに死んでいく年間50万人(推定)の日本人もまた存在しない。内蔵脂肪を燃焼させ、英会話を習得することが人々の仕事(あるいは生業)であればまず間違いなく人々はそれをやり遂げているに相違なく、つまりは私も我が家の倉庫番を生業とすることができれば、先に書いたような失敗は万にひとつもあり得ないのである(断言はできないけど)。現実にはそうでないから、彼らメタボラー&年間50万人と私の悩みはつきないのです。
翌日の仕事の道具を揃えるというのは段取り下手な私にとって気の重い作業のひとつです。苦痛を和らげるために何か音楽をかけるなどします。たまたま先日はそのBGMがデューク・エリントンでした。
古いジャズの録音には時折理解に苦しむほどの綾(アク?)があって、同じ古い米国の音楽でも素朴なカントリー・ブルースなどはずっと耳馴染みがいいのですが、ややしばらく我慢していると「A列車で行こう」がかかってホッとします。「A列車」は曲もアレンジも特Aです。
気持ちがぐっと上向いたので翌日の準備は翌日に回して、しばらく古いレコードやカセットを聴くことにしました。部屋にCDプレーヤーがないのでそういうことになるだけの話ですが、じっくり腰を据えて聴く時、レコードはやはり気分が出ますですねえ。じっくりという割にこの日のように3曲ずつしか聴かないにしても、針を持ち上げてレコードに傷つけないように次の曲にそっとしかも素早く針をおろす動作には無意味だけど侮れない楽しさがあります。犬のように不器用な人間が長年の習慣で人間らしくなれることを実感するひとときでもある。(そこへいくとCDプレーヤーのボタンなんて犬でも押せるでしょう。)音楽に携わっている割に僕のコレクションは貧弱というか少なくて、たとえばこの日のようにジャズを聴きたいと思ったとき極めて限られた選択肢しかないのですが、その分迷う手間が省けるともいえるでしょう。
大好きなジェリー・マリガンがアレンジャーとして関わったビッグバンドのボスは、ジーン・クルーパーという人で、この人は私の母が娘盛りだった頃にはドラマーの代名詞だったようで、ソロなど始まろうものならキャーキャー騒がれたものです(たぶん)。母は私が東京でドラマーで身を立てると聞いた時、きっと元気はつらつなジーン・クルーパーを思い浮かべたに違いなくて、それは彼女をかなり幸せな気分で満たしたことでしょう。そう思うととても申し訳ない気分になります。
マリガンは、バリトンサックスというサイのオナラのような音のする楽器の名手であると同時に、信じられないほど才能豊かなアレンジャーでもあります。1950年前後、彼は信じられないほどの量の仕事をこなしています。ひょっとするとずっと忙しかったのかもしれません。だって若死。といっても60歳くらい。この時代のミュージシャンとしては普通か。マイルス・デイビスの「クールの誕生」にも参加してます。「クールの誕生」がまた信じられないほどカッコいい。キラキラ輝く楽想はアイディアに満ち、退屈なところは一点もなく、全員一丸となって疾走するのですが、しかしなるほどクールで涼しくて厚ぼったいところは微塵もない。革新的なことをやっているんだという気概がびしびし伝わってきて実に爽快です。
英語のライナーノーツの英語を読み飛ばして人名と数字だけを拾うと、この時マイルス22歳、マリガン21歳、リー・コニッツ21歳、マックス・ローチ24歳、カイ・ウィンディング26歳、ギル・エバンス36歳で一番年寄り、と読めます。(マリガン、ゲッツ、ミンガス、パーカーと呼ぶのに、どうしてマイルスだけファーストネームなのか?ビートルズのメンバーじゃないのに。)ロックスターの年齢には敏感だった私ですが、ジャズはおっさんの音楽というロック社会の通念に従っていたため、まさかジョンより若くしてこの人たちがとんでもないことをしでかしていたなんて思いもよらないことでした。みんな同じ時期にどばっと生まれて、ガキの頃から悪い道に入って、ボロボロになるまで音楽をやって比較的あっさりとこの世からおサラバしている、そんな感じです。
エリントンは「デューク」と呼ばれていたので、次に私はマイルスの Miles Aheadに収められているThe Duke を聴きます。ジャズ史上もっともヒットした曲らしいTake Fiveの作曲者デイブ・ブルーベックが ,このThe Duke を書いたのだと今回初めて知りました。実にいいムード、アレンジはギル・エバンス。卒倒ものです。
The Sound Of Milesというタイトルのビデオの中でもこの曲は演奏されています。ギル(めんどうになってきたのでファーストネームです)は馬蹄形に並んだバンドを指揮しています。くたびれたネクタイ姿の、「人種的偏見に満ちた刑事」風の男が司会者で、黒板にイタめし屋の今日のメニューは・・・みたいに曲目と演奏者を書き連ねたのを、灰が落ちそうなタバコで持って指し示し、みりゃわかるだろうなんて感じで愛想笑いのひとつもないのです。こんなレストランには行きたくないですね。みんなスーツで決めてタバコ喫ってる。時代です。マイルスなんてコルトレーンのソロの間タバコ喫いながら立ち話してる。悪人です。構成もカメラワークも失禁ものです。監督はジャック・スマイト。この人の撮ったポール・ニューマン主演の「動く標的」の冒頭は空腹を忘れるほどカッコいいです。暑い夏の朝、ゴミゴミした都会のアパートの一室で目を覚ましたニューマン演じる探偵は、二日酔いで頭がガンガン痛くて、ランニングシャツ姿です。コーヒーが無性に飲みたいのですが、どこを探してもコーヒーがないので、仕方なくゴミ箱から昨日のヤツをペーパーフィルターごとつまみ上げてドリッパーにセットしてため息をつく。こういうことやらせると本当にカッコいい人ですね、ポール・ニューマン。60年代のカラー具合と、ハリウッドっぽいジャズは相性がいいというか、実際よく使われたのだと思います。「おかしな二人」のニール・ヘフティとか毛色は違うけどレッドフォード主演の「ホットロック」のクインシー・ジョーンズとか(いずれも記憶違いの可能性あり)。ホットロックのテーマを吹いているのはマリガンじゃないでしょうか。知っている人がいたら教えてください。でも動く標的の音楽がどうだったかは覚えていません。ちなみに冒頭のシーン以外も忘れました。(ちなみに続編の「新・動く標的」には推定年齢15歳のメグ・ライアンが頭のいかれた甘ったれのふしだらな娘という役柄で出ていて、その後の人生を決めてしまうようなはまり役でした。あまりふしだらなので、名前が知りたくてロールを一生懸命探しました。ああメグのことは何も知らないのに俺って偏見に満ちていますね。)
長くなったので続きを次回書きます。
コメント
金木犀の咲き始めの頃はとある場所の芳香剤を思い出してしまいますが、毎日嗅いでいると、芳香剤の様にきつくはない柔らかい匂いに心がほっこりするようになります。
話変わって、原マスミバンドみてきました!
飛龍頭の時、感動のあまり曲の途中だというのにスタンディング(してないけど着席で)オベーションしてしまいました。恥ずかしい....。