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霧の万年床〜楠 均のBGM日記2007/3 | ||||||
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打ち上げの居酒屋に身なりのよい老人が一人でやってきて、座るなりテーブルに20分ほど突っ伏した後、ガバと顔を上げて女将さんに向かって「こら!」と怒鳴ったかと思うと「わしのうちはどこや!?」に始まるナンセンスな言動挙動のオンパレード。テーブルに万札数枚広げといて、女将さんに「こんなにいりません」と引き取らされたりもしている。やりとりからイチゲンの客とわかるが、女将さんも板さんも辛抱強く鷹揚に対応。最後は老人が「しっかり励めよ」みたいなことを言って板さんと固い握手を交わして立ち去る。このやりとりを支えているのが他ならぬ大阪弁であることを実感しないわけにはいかなかった。大阪弁がうらやましく思える。「社交としてのフランクな態度」を可能にするユニークな言葉だと思う。「フィクションとしての親密さ」が無理なく演出される。フィクションと言ってもウソとは違う。「あんたと私はただの他人。せやけど袖すり合うも他生の縁。今このひとときの友とならんや。」という共通の了解がある。長い時間をかけて練り上げられたであろうイントネーション・アクセント・言葉の歴史は、そのまま人と人とが情に頼らずに仲良くやっていくための工夫の歴史だったと思う。(言葉の外見ではなく、現実の心の動きが伴わないと大阪弁がこのような資質を持つことはなかった。と思う。)作家のヴォネガットは、必要なのは愛ではなく少しの親切心だ、と言っていた(ような気がする)。親切心がないと、大阪弁の外見の親密さは、きっついウソっぽさに裏返る、こともまた覚えのあるところ。
深夜の中央線の体が変形するほどの混雑の記憶も薄れぬまま、気が付けば新幹線の中。(遊佐未森さんの)cafe mimo大阪進出。梅田の赤い観覧車を載っけたあのビルの中。cafe mimoもこうして少しずつ版図を広げ、やがて帝国を築くのだ。ぼっけーきょーてー(競艇)マニアの寺田さん作編曲コーナーにおけるmimoちゃんの少し演歌調の歌唱には本職の演歌歌手には出せない明るいのんびりやかさがあって、ぜひとも全アジアに知らしめたい。まずは紅白だ。坂本冬美ちゃんと一緒に後ろで踊りたい。
コメント
目上の人に、言いにくいことを
冗談めかして言ってしまう
などということがたやすくできる。
とてつもなく機能的な言語だ。
しかしまあ、標準語以外にも
江戸弁というものもあるんだよね。
「いいかげんにしろよ、おまえ!」を「ええんしーやー、じぶーん」と笑って言える貴重な言語(脳裏にはゴンザレス某の顔が浮かぶ)。
ボクはすっかり大阪弁を捨ててしまって元には戻れない体だが、堂々と大阪弁で通す男でありたかったと、最近よく思う。
松島くん、江戸弁での日常のコミュニケーションを見聞したいよね。大阪は首都じゃないから生き延びたのかね。
福ちゃん、大阪弁を捨てた福ちゃんの身体は言語解剖学的に実に貴重なサンプルだと思うよ。最近はそういう人いないから。